論理に関する雑記1

  • 不明は偽ではない。

  • 「『A≠A』は真である」は真である。

  • 「『A≠A』は偽である」は真である。

  • 「『A≠A』は不明である」は真である。

  • 無言及は偽でも真でもない。

  • 「誤り」は、非論理的ではない。論理的に誤りであり、真偽値が偽であるということである。「誤り」は、論理的である。

  • 古典論理において、正しいことを言うことと、正しいと確認することは別である。例えば、「5年後のクリスマスは雪が降る」という命題を、正しいかわからない状態で言うことは可能だろう。

  • 古典論理において、議論せずとも真偽は変わらない

  • 「A≠A」は「論理に従って」限考値をとることになる。否、ただ、「限考値をとる」。論理という指示者がいるのではなく、「こうある」ということが論理であろう。

  • ある主張が現実値を取らないというのは、あくまでも論理的に現実値を取らないというである。「現実値を取らないから無価値だ」という主張は、ヒュームの法則に反している。

  • 「その考えは間違っている。正しい考えをするべきだ。」この発言は論理的に正しくない。正しい指摘は、単に「その考えは間違っている。」となる。(もっともこの文は、「道徳に従って」の場合もあるだろう)

  • ヒュームの法則によって論理的でないと指摘された道徳的価値のことを、論理的でないという理由で無価値と指摘することは、ヒュームの法則によって論理的でないと指摘される。そして、それによって無価値と指摘することは...(無限に続く)

  • 論理から道徳を導けなくとも、非論理から論理と道徳の因果は導きうるのではないか。すなわち、「論理的であるべき」が論理的でなくとも、道徳的ではありうるのではないか。(「論理的であるべき」という論理的でない規範は論理的に矛盾している。しかし、道徳が論理を超越している場合は問題にならないだろう)

  • 「この価値は論理的に説明できない」ということは、まさに論理的に説明できないことが価値の特徴でろう。

  • 「相手の誤りは指摘するべきである」これも、ヒュームの法則によれば正しくない。

  • 「相手が誤ったから指摘した」この因果が正しいかは不明である。

  • 例えば、「感覚よりも論理を優先すべき」という論述も、論理に肯定されない。

  • 論理とは、「そうなる」のではなく、「そう」である。

  • 「雲は人である」「人は死ぬ」「よって、雲は死ぬ」このような現実と異なる三段論法も、論理的には正しい。現実と違う言葉を用いても論理は成り立つ。真なる命題は現実を表すとは限らない。現実と論理値が一致するだけである。

  • 二人の意見が一致していないとする。もしその論述の対象を知らないとしても、二人の意見のどちらかは正しくないということを知ることができる。

  • 論理はおそらく、現実から取得したのだと思う。

  • 論理は経験則である。

  • 論理は経験則に従う蓋然的真理であり、その論理を仮に(蓋然的でない)真理であるとした内部においても、経験則は蓋然的なことである。もっとも、蓋然的であるという記述は、論理的である。

  • 懐疑は論理を前提しているよう思える。では、デカルトのいう「明晰判明」は論理を前提しているだろうか。

  • 物事が論理的でないといけないなんてことはなく、すでにあることに論理をあてがっているだけなのかもしれない。この文も、別に論理的などという性質は持っておらず、ただこれを評価できる論理というものさしをあてがっているだけなのではないか。とすれば、論理は主観に依っている。あるいは、非恣意的なことを恣意に依って推理できるのは、非恣意が論理的だからであろうか?

  • 様々なことを言うほど、条件が限定される場合が多いと感じる。例えば、「あの哲学者は〇〇と△△と...と□□を語っている」という説明は、その哲学者がなにを語っているかの説明を増やせば増やすほどすなわち条件が限定されていき、誤りやすくなっていく。

  • 厳密さを欠くことを厭わず言えば、真なる命題は、偽なる命題に比べて少ないことを語る。

  • 私が認識できないということは、客観的な真偽を決定するものではないかもしれない。しかし、論理値自体が私の認識によって私に知覚されており、また私に認識されない真偽は私にとってまったく関係のないことなのである。

  • 非現実値を許容すると、三段論法は成り立たなくなるだろうか。

  • コギトの不可疑性は言わば、両取りやフォークに似ている。コギトがないと考えればそれがコギトとなり、そう考えなければコギトは疑われない。コギトの存在証明ではなく、あくまでも不可疑性であることに注意したい。また、両取りは真なる論理のもとにおいて可能であろう。

  • 「時間Aにpと思っていた」と、「時間Bに~pと思っていた」は矛盾していない。また、同時に複数の命題を思えるならば、「時間Cにpと思っていたかつ、時間Cに~pと思っていた」は矛盾していない。「時間Cにpと思っていたかつ、時間Cにpと思っていなかった」は矛盾している。

  • 対偶は、同一の領域を指しているのではない。指している領域の真偽値が同一なのである。

  • 否定はもとの命題に依存するだろうか?

  • 「無」は「有」ありきだろうか?あるいは「有」は「無」ありきだろうか?
  • 「この文は誤っている」この自己言及を考える時、どの論理値に行き着くかが不明である。例えば、真であるとしたときの1回目の言及は誤っているとなる。そして2回目の言及は真となる。最初の真偽Bを決定したとき、n回目の自己言及後の真偽は確定できる。

  • 自己言及のループを真偽のいずれかに決定することができない、これは理性の限界の1つと言えるのではないか。

  • 論理は、狭い範囲について論じるときも、広い範囲について論じるときも、その効果は希釈されない。

  • 矛盾は、人が矛盾しているのではない。意見が矛盾している。

  • 背理な言説は少なからず見られる。論理的真でなくとも困らない場合が多いのかもしれない。

  • 結果が可能ということは、過程を知っている保証ではない。例えば、歩行することができるとしても、それは歩行のメカニズムを知っている保証ではない。

  • 「論理のうちでは、AはBである」このような「定義」という機能は、論理が有しているだろうか?

  • 論理は悪魔に見せられているかもしれない。

  • 論理を帰納するに用いた現実は悪魔に見せられているかもしれない。

  • 主観が現実の現象に影響するとして、偽なる思考は影響するか?

  • 論理的根拠は思考に要請されるているらしく思える。

  • 真なる現実の論理から偽なる論理を取り出せるか?

  • 私は論理を記述として認識しているのだろうか。もしそうだとして、その認識は論理そのものとは一致しないのだろうか。

  • 認識されていないことは、不明とも認識されない。

  • 現実から帰納された論理は、現実を捨てた主観においても従前の信頼を保つだろうか。そしてこの言説にも論理が使用されており、また主観による認識である。

  • 論理に気付かないことも可能である。

  • 私の思考というノエシスの在り方は論理的真だろうか?

  • 論理とは私が思考可能な関係のことだろうか?

  • 人が誤りうるというのは、論理と行動の因果が不明になる一因といえよう。現実の現象に表れる人に関する推論は、人の内、誤りえない部分にのみ可能であるか?

  • 諸命題の関係は瞬時に決まるだろう。であれば、時間の経過を感じることができるのはなぜか?移動はなぜ瞬間行われず、移動として認識できるのか?時間は論理の転覆の足がかりとなるか?

  • コギトがなければ、コギトへの論理の影響もない。私に認識される論理は、コギトに先立っていない。

  • 例えば現実という現象のうちに三角形を見ることはできないだろう。私の感覚は、イデアとすべて異なっているのではないか?であれば、現実の現象は真とは限らず、現実の現象から帰納した論理はまったくでたらめかもしれない。

  • 論理を現実の現象から「帰納した」という表現は正しいだろうか。「演繹した」では誤りなのだろうか。

  • 完全にランダムなことは私の手に負えない。

  • 「『ソクラテスは人である』と思っている」としても、「『人でないならソクラテスでない』と思っている」とは限らない。

  • 現実値のうちに、非現実値を許容した物語が可能である。1つ上位の記号は、1つ下位の世界に含まれるように見せかけられるのではないか。

  • 論理は時間に言及していない、と見なせないだろうか。アプリオリな時間という性質が、論理という形式を崩す足がかりになるかもしれない。

  • (ある命題の真/偽/不明を判別することと逆に、)真なる命題を得る方法はどのようであるか。

  • 命題の論理値が思考に決定されるなら、それは思考が行う記述の仕上げの一種であろう。

  • 上位存在や上位論理からすれば、私は物語の登場人物かもしれない。

  • 上位論理は、忘れていても(コギトの自認とは違い)問題ないかもしれない。

  • 上位論理にも、一致/異なるという概念があるのではないか?

  • ただ在るということは、私の認識する論理値に先立っているのではないか?

  • 「コギトの有無と論理のいずれが先立つか?」ということは上位論理が決定しているのではないか?

  • 現実は私の現実値の思考あるいは認識のシニフィエの一種である。思考は上位世界の現実値のシニフィエの一種ではないか?

  • 私の思考を記号と捉えたとき、現実値のシニフィエの一種が現実である。そのシニフィエが、現実のシニフィアンである。であれば、上位論理の現実値のシニフィエの一種が、私の思考であるか?

  • 上位論理は背理が可能かもしれない。

  • 上位論理は、私の認識する論理とは別の、まったく滅茶苦茶な法則なのではないか?

  • 上位論理は、私の認識する論理とまったく異なる論理を並行に可能とするのではないか?

  • 現実の内に私はあり、現実を管理する法則が既知のものと異なるということはありえるだろう。例えば、「誤解は存在せず、『誤解が存在する』という理解もやはり誤解ではない」が成り立つ上位論理によって支配されているかもしれない。

  • 外考値の定義には現実値と限考値が用いられる。しかし、我々の論理を決定する上位論理の内には、現実値も限考値も定義に用いない、そのままの外考値があるのではないか?

  • 現実値であるという条件の一貫性は、論理の規定である上位論理からも、そして下位論理の規定にまで及んで一直線となっているのではないか。そしてもしかすると、そうでない場合、思考というノエシスが可能でないのかもしれない。あるいは思考という形式でないかもしれない。私はその場合を想像できないのかもしれない。

  • 仮説。「A=A」は真であるから、それが指すこととの紐付きも真な論理に従っている。「A≠A」は偽であるから、それが指すこととの紐付きは、偽な論理に従っている。

  • 私は、「論理」と名前がついていることによってなんらかの誤解をしている気がしてならない。