語の選択に関する論考

(ぼくが)論述をがんばるぞ!なときの言葉選びについてです!

「正しい」「意味」

 「正しい」という語は少なくとも論理値と道徳的価値の2種を、「意味」という語は少なくともシニフィエと道徳的価値の2種を指しえます。私はこれらの語を用いるにあたって、予め定義を行います。
 本論考において、「正しい」は論理値を、「意味」はシニフィエを指します。

「良い」

 「良い」という語は、例えば「良い椅子」を指すとき、「頑丈」「低価格」「見た目が好み」などの意味を含むでしょう。このように複合的な語だと言えます。そして、「良い」というには、「高価格でなければならない」という考えもありえます。要素の組み合わせにより、「良い」という語は背理となりうるわけです。そしてすなわち、「良い」という語を用いた論述は背理となりうるわけです!!!
 また私は、多義性を減らす目的で、「良い」という語の使用を控えることにしています!もっとも、「良い」という多義語を減らしたからといって、必ずしも文の多義性が減るとは限りません。というのは理解しています!

「〜〜してしまう」, 「〜〜することができる」

 「〜〜してしまう」という語は、その対象が悪かのように感じる。「〜〜することができる」も同様に、善かのように感じる。私は現状の思索において、これらの性質を判断しないよう心がけている。私は、これらの語の使用を控えている。

「べき」「善い」「悪い」

 これらの語は道徳的価値について語っていると思う。私は道徳的価値を認識できている自信がなく、これらの語の使用は控えることにしている。
 また、「善い」が道徳的価値であることに対し、「良い」は好ましいことを表しているよう感j
もう一人のぼく(排中律)「それってヴィトゲンシュタイン様の倫理学講話じゃない?」
ぼく「ほんとだ!!!!!」
すみません、もう一人のぼく(排中律)をやりたかったんです。
iる。私はこれらを使用する際、明確に区別している。
 「悪い」に関しても、道徳的な絶対悪ではなく、「好ましくない」「避けたい」を表す場合があると思う。この多義性を私は避けたいと思い、そして前述のように、言い換えて使用します。

「無い」

 ここでいう「無い」とは、論理における否定とは異なり、消極的事実を指します。
 私は消極的事実の証明について判断を下せていないと思いますが!暫定的に、この語の使用を控えます。

消極的事実を含む語

 「多い」「少ない」「大きい」「小さい」などは、「全体の内で」という意味を持つことと思います。すなわち、「全体の内で相対的に大きい」ということ!そして「全体」は「これらの他に無い」ということですから、消極的事実を含みます。私はこれらの語を控えたく思います。

「意味が無い」

 たとえ「意味はシニフィエを指す」と明言していたとしても、例えば「その発言には意味がない」という言説は、道徳的無価値を表すよう感じると思います。シニフィエについて論じるならば「シニフィエが存在しない」のように言い換え、道徳的無価値を表すならば「その発言は非道徳的だ」のように言い換えます。

「思想」

 「思想」という語はいくらか強い意味を持つよう思います。私は自身の思索においてこのニュアンスを減らしたく思っておりまして、「思想」ではなく「思索」という語をあてています!

「〇〇的」

 この語は、「〇〇という性質を持つ」という意味の他に、「漠然と〇〇である」のような意味が考えられます。私は思索において、なるべく判然としている状態でありたく思います。ゆえに、この語は充分慎重に使用します。
 もっとも、「漠然とした意味を使用する」という決定はおそらく漠然としていないと思います。すなわち、漠然とした言葉を使用するノエシスの在り方は漠然としていないでしょう!漠然とした言葉の選択は判然としている、と考えています!!!

「本質」

 本質という多義語は、論述をわかりにくくする要因の1つだと思います。例えば、「内在」「共通部分」「変化しない箇所」のように言い換えることで、論述のわかりやすさを向上させることができるはず!そうするぞー!という気持ちです!

無機質な表現

 「純粋理性批判」の評価は、「一人が偏見に基づいて語っている」とも、「一人が一貫して体系化を行った思想である」とも表現することができるでしょう。ですが私は、「認識能力に纏わる思想」のように、より無機質に見える表現を選びます。そうすることで例えば、論理的な判断が実際と一致する可能性が高くなるよう感じています。

定量的な表現

 「あのロープは長い」と定性的に言うのではなく「あのロープの長さは10mだ」と定量的に言います。そうすることで、「無機質な表現」同様、例えば論理的な判断が実際と一致する可能性が高くなるよう感じています。

 なお、「〇〇的」において述べたように、定性的(この語は〇〇的という語ですね!!!)な判断は判然としていると考えています。ロープを見て長いと思ったのなら、それははっきりと、長いと思ったという事実があるはずです。

定義の方向

 「このサイコロを振れば、必ず1が出る」と定義されていることを考えます。そして、このサイコロを振って「3」と表示された面が出たとき、定義はどうなるのでしょうか。
 まず、「このサイコロを振れば、これまでは必ず1が出ていた」と、定義を改めることが考えられます。そして反対に、「この出目は1である」と新たに定義することも考えられます。定義には、少なくともこの2つの種類が、言わば2方向があります!私は自らがこれら定義の方向を混同しないよう、そして自らの表現によってどなたかを混同させないよう、注意したいと思っています!

因果の表現

 「思考哲学論草稿―思考と現実という現象の因果、その確認」で論じた通り、因果の表現は思っているよりも真偽を確定できていないと思います。私は、「因果の表現に気を付けたい」と考えています。

 

 

 

この記事のタグってなんだ...?「言葉」とかですか...?