記号に関する雑記1

  • シニフィエが一意でないこと(例えば、読む時間によって解釈が変わりうること)は、現実の現象にシニフィエが含まれないことを表すかもしれない。しかし、例えばシニフィアンに(比喩ではなく)煤汚れが着くことでシニフィエが変わるかもしれない。
  • シニフィアンはただ在るものではなく、シニフィエを指すという機能を持っているかもしれない。(実際にその機能を持っているのは私で、シニフィアンが持っていると見なしているだけかもしれない。あるいは、シニフィエが持っているかもしれない)
  • 発言には、発言内容と、発言するという態度の2要素が考えられる。
  • 記述できないことは例示できない。
  • 知覚はシニフィアンシニフィエ、記述はシニフィエシニフィアンのように思える。
  • 現実には、シニフィアン界とシニフィエ界があるかもしれず、そう「見なす」ことも可能である。
  • 例えばシニフィエシニフィアンがそうであるが、こういう構造であると排他的に言っているのではなく、こう見なすことが可能だと言っている。
  • 「作者より頭のいい登場人物は作れない」、これを、読者の視点に注目して考えてみる。読者が知覚するシニフィエとして作者より頭のいい登場人物は、サイコロを振ることでも記述できる。作者に思考できないからといって、読者に思考できないというわけではないだろう。ロールシャッハ・テストでは、インクを垂らし紙を折り曲げた人物には思考できないことを、被験者は見出し、思考しうるのである。
  • 因果の表現において、「他に条件はない」と記述したとする。しかし、そう記述したからといって、他に条件がないと確定するわけではない。
  • アンクラージュは言語では行えないのか?
  • 無言及なら不明だとする。であれば、ラングをそのうちに明言せねば、ディスクールは不明となる。そして一意も不可能であろう。もっとも、ラングは記号ではないのかもしれない。
  • ラングが記号でなくとも、ラングの考察は記号たりえる。
  • 記号は定義されずともシニフィエを持つだろう。でなければ、定義すら不可能である。(←これ違いそうです🦴)
  • シニフィエだけの伝達は可能であるか?
  • 知覚されたシニフィアンはそうとしか考えられず、知覚されたシニフィエは疑えるのではないか。
  • 「多義である」ということは、「多義である」という一義にほかならない。私に知覚された複数の意味を合わせて、否、合わせずとも1つの意味である。そしてこれは、シニフィエの階層構造を表しているようにも感じる。
  • 「記述できない」は論理を前提しているだろうか。
  • もがいて手に当たったものは、それを探していたわけでなくとも、そこにあるのが確信される。同様に、もがくように思考して考えついた記号は、それが思考可能だということになる。
  • 記号も悪魔に見せられているかもしれない。この説明が記号であるということをも、悪魔に見せられているかもしれない。
  • シニフィアンからシニフィエが生まれるということ、あるいはシニフィエからシニフィアンが生まれるということはありえるだろうか?
  • 同じ言語という媒体であっても、「言語にならないこと」という記述は可能だが、言語にならないことそれ自体は不可能である 同じ媒体のうちにシニフィエが可能でも、シニフィアンが不可能なことはある。
  • 記号が第一原理でなくとも、第一原理の説明に記号を用いることはできるだろう。
  • 言語とは単に、絵画や音楽や味や香りや手触りの一種なのではないか。加えてそうだとしても、これら感覚の間に共有する言語というなんらかを私は認識している。
  • 記号と論理はどちらかがどちらかに含まれるか?記号に反した論理は可能だろうか、あるいは論理に反した記号は可能だろうか。更には、論理に反したシニフィアンは可能だろうか。論理に反したシニフィエは可能だろうか。そしてこれらを反転した場合についても、可能だろうか。
  • 思考内容がでたらめであっても、ノエマの存在およびノエシスの存在に変わりない。何かが成り立つとき、その内容がどうあれ、やはり何かが、そしてその内容の存在が成り立っている。
  • 真偽はシニフィアンには適用されず、シニフィエにのみ適用されるのか?
  • 例えば脳という器官を(無意識の領域まで含めて)すべて表現すれば、たとえ誤った認識の最中であっても真なる記述が得られるだろうか。しかしそれは言語では達成されない予感がしている。
  • シニフィアンシニフィエという構造に気付かないことも可能である。
  • 「思考は記号である」という思考は記号であるか?すなわち、自認はシニフィアンシニフィエのみで成り立つか?
  • 思考された記憶は記号であるか?
  • 懐疑に記号が必要なら、記号は懐疑によって崩壊しない。
  • 認識できない記号は、あるいはシニフィエは、あるいはその他なんらかは、想像もできないだろうか?
  • モンデグリーンは、シニフィエが現実の現象に含まれないという論に援用することができる。
  • 現実の内に、現実を表さない記述が可能である。
  • 私が日本語の挨拶として「こんにちは」と発音したとする。その音は既に、私に知覚される新たな記号であり、元に想定していた記号とは異なっている。
  • 私の「本当のシニフィエ」に関する論述は、「私が想像する本当のシニフィエ」に関する論述に他ならない。
  • 私が行う記号への言及は、私の認識への言及である。
  • 「A=A」はトートロジーであるが、「左辺のA」と「右辺のA」のように(記号として)識別可能である。「A」という記号単体では識別することができない(もちろん、このシニフィアンの形は「『A』という形の上半分」と「『A』という形の下半分」に識別できる)。
  • 記号論に新たな概念を導入すれば、従前の網羅性はなくなりうる。例えば、「シニフィエは『抽象的なもの』と『直接的なもの』の2つに排他的に分類できる」という概念を導入すれば、「具体的なシニフィエ」「間接的なシニフィエ」「抽象的で直接的なシニフィエ」がすり抜けていく。
  • 伝言が行われようが行われなかろうが、私が知覚したシニフィエは私が知覚したシニフィエである。
  • 「私が語れる記号とは、私が認識した記号に他ならない。」この命題は正しいだろうか。

論理に関する雑記1

  • 不明は偽ではない。

  • 「『A≠A』は真である」は真である。

  • 「『A≠A』は偽である」は真である。

  • 「『A≠A』は不明である」は真である。

  • 無言及は偽でも真でもない。

  • 「誤り」は、非論理的ではない。論理的に誤りであり、真偽値が偽であるということである。「誤り」は、論理的である。

  • 古典論理において、正しいことを言うことと、正しいと確認することは別である。例えば、「5年後のクリスマスは雪が降る」という命題を、正しいかわからない状態で言うことは可能だろう。

  • 古典論理において、議論せずとも真偽は変わらない

  • 「A≠A」は「論理に従って」限考値をとることになる。否、ただ、「限考値をとる」。論理という指示者がいるのではなく、「こうある」ということが論理であろう。

  • ある主張が現実値を取らないというのは、あくまでも論理的に現実値を取らないというである。「現実値を取らないから無価値だ」という主張は、ヒュームの法則に反している。

  • 「その考えは間違っている。正しい考えをするべきだ。」この発言は論理的に正しくない。正しい指摘は、単に「その考えは間違っている。」となる。(もっともこの文は、「道徳に従って」の場合もあるだろう)

  • ヒュームの法則によって論理的でないと指摘された道徳的価値のことを、論理的でないという理由で無価値と指摘することは、ヒュームの法則によって論理的でないと指摘される。そして、それによって無価値と指摘することは...(無限に続く)

  • 論理から道徳を導けなくとも、非論理から論理と道徳の因果は導きうるのではないか。すなわち、「論理的であるべき」が論理的でなくとも、道徳的ではありうるのではないか。(「論理的であるべき」という論理的でない規範は論理的に矛盾している。しかし、道徳が論理を超越している場合は問題にならないだろう)

  • 「この価値は論理的に説明できない」ということは、まさに論理的に説明できないことが価値の特徴でろう。

  • 「相手の誤りは指摘するべきである」これも、ヒュームの法則によれば正しくない。

  • 「相手が誤ったから指摘した」この因果が正しいかは不明である。

  • 例えば、「感覚よりも論理を優先すべき」という論述も、論理に肯定されない。

  • 論理とは、「そうなる」のではなく、「そう」である。

  • 「雲は人である」「人は死ぬ」「よって、雲は死ぬ」このような現実と異なる三段論法も、論理的には正しい。現実と違う言葉を用いても論理は成り立つ。真なる命題は現実を表すとは限らない。現実と論理値が一致するだけである。

  • 二人の意見が一致していないとする。もしその論述の対象を知らないとしても、二人の意見のどちらかは正しくないということを知ることができる。

  • 論理はおそらく、現実から取得したのだと思う。

  • 論理は経験則である。

  • 論理は経験則に従う蓋然的真理であり、その論理を仮に(蓋然的でない)真理であるとした内部においても、経験則は蓋然的なことである。もっとも、蓋然的であるという記述は、論理的である。

  • 懐疑は論理を前提しているよう思える。では、デカルトのいう「明晰判明」は論理を前提しているだろうか。

  • 物事が論理的でないといけないなんてことはなく、すでにあることに論理をあてがっているだけなのかもしれない。この文も、別に論理的などという性質は持っておらず、ただこれを評価できる論理というものさしをあてがっているだけなのではないか。とすれば、論理は主観に依っている。あるいは、非恣意的なことを恣意に依って推理できるのは、非恣意が論理的だからであろうか?

  • 様々なことを言うほど、条件が限定される場合が多いと感じる。例えば、「あの哲学者は〇〇と△△と...と□□を語っている」という説明は、その哲学者がなにを語っているかの説明を増やせば増やすほどすなわち条件が限定されていき、誤りやすくなっていく。

  • 厳密さを欠くことを厭わず言えば、真なる命題は、偽なる命題に比べて少ないことを語る。

  • 私が認識できないということは、客観的な真偽を決定するものではないかもしれない。しかし、論理値自体が私の認識によって私に知覚されており、また私に認識されない真偽は私にとってまったく関係のないことなのである。

  • 非現実値を許容すると、三段論法は成り立たなくなるだろうか。

  • コギトの不可疑性は言わば、両取りやフォークに似ている。コギトがないと考えればそれがコギトとなり、そう考えなければコギトは疑われない。コギトの存在証明ではなく、あくまでも不可疑性であることに注意したい。また、両取りは真なる論理のもとにおいて可能であろう。

  • 「時間Aにpと思っていた」と、「時間Bに~pと思っていた」は矛盾していない。また、同時に複数の命題を思えるならば、「時間Cにpと思っていたかつ、時間Cに~pと思っていた」は矛盾していない。「時間Cにpと思っていたかつ、時間Cにpと思っていなかった」は矛盾している。

  • 対偶は、同一の領域を指しているのではない。指している領域の真偽値が同一なのである。

  • 否定はもとの命題に依存するだろうか?

  • 「無」は「有」ありきだろうか?あるいは「有」は「無」ありきだろうか?
  • 「この文は誤っている」この自己言及を考える時、どの論理値に行き着くかが不明である。例えば、真であるとしたときの1回目の言及は誤っているとなる。そして2回目の言及は真となる。最初の真偽Bを決定したとき、n回目の自己言及後の真偽は確定できる。

  • 自己言及のループを真偽のいずれかに決定することができない、これは理性の限界の1つと言えるのではないか。

  • 論理は、狭い範囲について論じるときも、広い範囲について論じるときも、その効果は希釈されない。

  • 矛盾は、人が矛盾しているのではない。意見が矛盾している。

  • 背理な言説は少なからず見られる。論理的真でなくとも困らない場合が多いのかもしれない。

  • 結果が可能ということは、過程を知っている保証ではない。例えば、歩行することができるとしても、それは歩行のメカニズムを知っている保証ではない。

  • 「論理のうちでは、AはBである」このような「定義」という機能は、論理が有しているだろうか?

  • 論理は悪魔に見せられているかもしれない。

  • 論理を帰納するに用いた現実は悪魔に見せられているかもしれない。

  • 主観が現実の現象に影響するとして、偽なる思考は影響するか?

  • 論理的根拠は思考に要請されるているらしく思える。

  • 真なる現実の論理から偽なる論理を取り出せるか?

  • 私は論理を記述として認識しているのだろうか。もしそうだとして、その認識は論理そのものとは一致しないのだろうか。

  • 認識されていないことは、不明とも認識されない。

  • 現実から帰納された論理は、現実を捨てた主観においても従前の信頼を保つだろうか。そしてこの言説にも論理が使用されており、また主観による認識である。

  • 論理に気付かないことも可能である。

  • 私の思考というノエシスの在り方は論理的真だろうか?

  • 論理とは私が思考可能な関係のことだろうか?

  • 人が誤りうるというのは、論理と行動の因果が不明になる一因といえよう。現実の現象に表れる人に関する推論は、人の内、誤りえない部分にのみ可能であるか?

  • 諸命題の関係は瞬時に決まるだろう。であれば、時間の経過を感じることができるのはなぜか?移動はなぜ瞬間行われず、移動として認識できるのか?時間は論理の転覆の足がかりとなるか?

  • コギトがなければ、コギトへの論理の影響もない。私に認識される論理は、コギトに先立っていない。

  • 例えば現実という現象のうちに三角形を見ることはできないだろう。私の感覚は、イデアとすべて異なっているのではないか?であれば、現実の現象は真とは限らず、現実の現象から帰納した論理はまったくでたらめかもしれない。

  • 論理を現実の現象から「帰納した」という表現は正しいだろうか。「演繹した」では誤りなのだろうか。

  • 完全にランダムなことは私の手に負えない。

  • 「『ソクラテスは人である』と思っている」としても、「『人でないならソクラテスでない』と思っている」とは限らない。

  • 現実値のうちに、非現実値を許容した物語が可能である。1つ上位の記号は、1つ下位の世界に含まれるように見せかけられるのではないか。

  • 論理は時間に言及していない、と見なせないだろうか。アプリオリな時間という性質が、論理という形式を崩す足がかりになるかもしれない。

  • (ある命題の真/偽/不明を判別することと逆に、)真なる命題を得る方法はどのようであるか。

  • 命題の論理値が思考に決定されるなら、それは思考が行う記述の仕上げの一種であろう。

  • 上位存在や上位論理からすれば、私は物語の登場人物かもしれない。

  • 上位論理は、忘れていても(コギトの自認とは違い)問題ないかもしれない。

  • 上位論理にも、一致/異なるという概念があるのではないか?

  • ただ在るということは、私の認識する論理値に先立っているのではないか?

  • 「コギトの有無と論理のいずれが先立つか?」ということは上位論理が決定しているのではないか?

  • 現実は私の現実値の思考あるいは認識のシニフィエの一種である。思考は上位世界の現実値のシニフィエの一種ではないか?

  • 私の思考を記号と捉えたとき、現実値のシニフィエの一種が現実である。そのシニフィエが、現実のシニフィアンである。であれば、上位論理の現実値のシニフィエの一種が、私の思考であるか?

  • 上位論理は背理が可能かもしれない。

  • 上位論理は、私の認識する論理とは別の、まったく滅茶苦茶な法則なのではないか?

  • 上位論理は、私の認識する論理とまったく異なる論理を並行に可能とするのではないか?

  • 現実の内に私はあり、現実を管理する法則が既知のものと異なるということはありえるだろう。例えば、「誤解は存在せず、『誤解が存在する』という理解もやはり誤解ではない」が成り立つ上位論理によって支配されているかもしれない。

  • 外考値の定義には現実値と限考値が用いられる。しかし、我々の論理を決定する上位論理の内には、現実値も限考値も定義に用いない、そのままの外考値があるのではないか?

  • 現実値であるという条件の一貫性は、論理の規定である上位論理からも、そして下位論理の規定にまで及んで一直線となっているのではないか。そしてもしかすると、そうでない場合、思考というノエシスが可能でないのかもしれない。あるいは思考という形式でないかもしれない。私はその場合を想像できないのかもしれない。

  • 仮説。「A=A」は真であるから、それが指すこととの紐付きも真な論理に従っている。「A≠A」は偽であるから、それが指すこととの紐付きは、偽な論理に従っている。

  • 私は、「論理」と名前がついていることによってなんらかの誤解をしている気がしてならない。

 

語の選択に関する論考

(ぼくが)論述をがんばるぞ!なときの言葉選びについてです!

「正しい」「意味」

 「正しい」という語は少なくとも論理値と道徳的価値の2種を、「意味」という語は少なくともシニフィエと道徳的価値の2種を指しえます。私はこれらの語を用いるにあたって、予め定義を行います。
 本論考において、「正しい」は論理値を、「意味」はシニフィエを指します。

「良い」

 「良い」という語は、例えば「良い椅子」を指すとき、「頑丈」「低価格」「見た目が好み」などの意味を含むでしょう。このように複合的な語だと言えます。そして、「良い」というには、「高価格でなければならない」という考えもありえます。要素の組み合わせにより、「良い」という語は背理となりうるわけです。そしてすなわち、「良い」という語を用いた論述は背理となりうるわけです!!!
 また私は、多義性を減らす目的で、「良い」という語の使用を控えることにしています!もっとも、「良い」という多義語を減らしたからといって、必ずしも文の多義性が減るとは限りません。というのは理解しています!

「〜〜してしまう」, 「〜〜することができる」

 「〜〜してしまう」という語は、その対象が悪かのように感じる。「〜〜することができる」も同様に、善かのように感じる。私は現状の思索において、これらの性質を判断しないよう心がけている。私は、これらの語の使用を控えている。

「べき」「善い」「悪い」

 これらの語は道徳的価値について語っていると思う。私は道徳的価値を認識できている自信がなく、これらの語の使用は控えることにしている。
 また、「善い」が道徳的価値であることに対し、「良い」は好ましいことを表しているよう感j
もう一人のぼく(排中律)「それってヴィトゲンシュタイン様の倫理学講話じゃない?」
ぼく「ほんとだ!!!!!」
すみません、もう一人のぼく(排中律)をやりたかったんです。
iる。私はこれらを使用する際、明確に区別している。
 「悪い」に関しても、道徳的な絶対悪ではなく、「好ましくない」「避けたい」を表す場合があると思う。この多義性を私は避けたいと思い、そして前述のように、言い換えて使用します。

「無い」

 ここでいう「無い」とは、論理における否定とは異なり、消極的事実を指します。
 私は消極的事実の証明について判断を下せていないと思いますが!暫定的に、この語の使用を控えます。

消極的事実を含む語

 「多い」「少ない」「大きい」「小さい」などは、「全体の内で」という意味を持つことと思います。すなわち、「全体の内で相対的に大きい」ということ!そして「全体」は「これらの他に無い」ということですから、消極的事実を含みます。私はこれらの語を控えたく思います。

「意味が無い」

 たとえ「意味はシニフィエを指す」と明言していたとしても、例えば「その発言には意味がない」という言説は、道徳的無価値を表すよう感じると思います。シニフィエについて論じるならば「シニフィエが存在しない」のように言い換え、道徳的無価値を表すならば「その発言は非道徳的だ」のように言い換えます。

「思想」

 「思想」という語はいくらか強い意味を持つよう思います。私は自身の思索においてこのニュアンスを減らしたく思っておりまして、「思想」ではなく「思索」という語をあてています!

「〇〇的」

 この語は、「〇〇という性質を持つ」という意味の他に、「漠然と〇〇である」のような意味が考えられます。私は思索において、なるべく判然としている状態でありたく思います。ゆえに、この語は充分慎重に使用します。
 もっとも、「漠然とした意味を使用する」という決定はおそらく漠然としていないと思います。すなわち、漠然とした言葉を使用するノエシスの在り方は漠然としていないでしょう!漠然とした言葉の選択は判然としている、と考えています!!!

「本質」

 本質という多義語は、論述をわかりにくくする要因の1つだと思います。例えば、「内在」「共通部分」「変化しない箇所」のように言い換えることで、論述のわかりやすさを向上させることができるはず!そうするぞー!という気持ちです!

無機質な表現

 「純粋理性批判」の評価は、「一人が偏見に基づいて語っている」とも、「一人が一貫して体系化を行った思想である」とも表現することができるでしょう。ですが私は、「認識能力に纏わる思想」のように、より無機質に見える表現を選びます。そうすることで例えば、論理的な判断が実際と一致する可能性が高くなるよう感じています。

定量的な表現

 「あのロープは長い」と定性的に言うのではなく「あのロープの長さは10mだ」と定量的に言います。そうすることで、「無機質な表現」同様、例えば論理的な判断が実際と一致する可能性が高くなるよう感じています。

 なお、「〇〇的」において述べたように、定性的(この語は〇〇的という語ですね!!!)な判断は判然としていると考えています。ロープを見て長いと思ったのなら、それははっきりと、長いと思ったという事実があるはずです。

定義の方向

 「このサイコロを振れば、必ず1が出る」と定義されていることを考えます。そして、このサイコロを振って「3」と表示された面が出たとき、定義はどうなるのでしょうか。
 まず、「このサイコロを振れば、これまでは必ず1が出ていた」と、定義を改めることが考えられます。そして反対に、「この出目は1である」と新たに定義することも考えられます。定義には、少なくともこの2つの種類が、言わば2方向があります!私は自らがこれら定義の方向を混同しないよう、そして自らの表現によってどなたかを混同させないよう、注意したいと思っています!

因果の表現

 「思考哲学論草稿―思考と現実という現象の因果、その確認」で論じた通り、因果の表現は思っているよりも真偽を確定できていないと思います。私は、「因果の表現に気を付けたい」と考えています。

 

 

 

この記事のタグってなんだ...?「言葉」とかですか...?

超克の対象として―思考哲学論草稿

「ぼく」っていう一人称、本論で読みにくすぎる!!!!!「私」にしています!!!!!フォーマル・ぼくを見てくださいませ、ご主人様(Sharara−nn(シャララーン...))(文語と口語がギクシャク混ざった感じになっていて、変すぎると思います!)(表記揺れとか言葉の使い方が定まっていなかったりがあるかもしれません!ごめんなさい!)

思考哲学論草稿

 デカルト・カント・フッサールは、コギトを主眼に捉えました。ウィトゲンシュタインは、論理や記号を主眼に捉えました。これらを継承した論に命名するのなら、安易とは思うのですが、思考という語を当てたいと思います。いずれ変えたいです!
 本論のおおまかな題目は、客観世界ではありません。およそ明晰と思われる、著者であるこのコギトと、このコギトが見ている現象です。みなさんとみなさんが見ている現象に一致していると嬉しいです!🌸 本論がわかりにくければ、本論末尾で行っている概説がお役に立つかもしれません...!

 「成案のエッセンス」として書いた思索を得た当初、私はこの草稿を全面的に再校閲し、草稿の内にその思索を適用させようとしていました。しかし、それは書くにあたっても、また読むにあたってもより難解となり、むしろ超克の対象と対象とした方がこの草稿には適していると考えました🌻

1. 準備

本論の論理体系

 本論では、真/偽/真偽証明不能の3値論理を採っています!また、「真偽証明不能」を「不明」と書きます!
 偽なる命題の実例として「A≠A」を使用することがあります。これは「AはAでない」ということですから、偽というわけです🐟

言葉の定義

本論
 思考哲学論草稿全体を表します!
真, 正しい
 論理値が真であることを表します!道徳的価値を表しません!
偽, 誤り
 論理値が偽であることを表します!道徳的無価値を表しません!
不明
 「真偽を証明できない」という論理値を表します!
意味
 シニフィエを表します!道徳的価値を表しません!
記号
 本論において、「シニフィアンシニフィエの組み合わせ」と同値です!
記述
 何かを書く、発音する、思考するなどで記号を述べるという動詞です!あるいは、「記述されたもの」を省略した名詞です!後者の用法は、あくまでも本論内においては、「記号」に置き換え可能と考えています。ですが双方のニュアンス(*1)からして、文脈により「記述」の方がわかりやすい場合があると考えています!
例え, 喩え
 「例え」は具体的な例示を、「喩え」は比喩や擬人法などを用いたまったく別物としての説明を表します!これらは明確に区別して使っています!

 今この文章を書いていると認識している、著者である「この」コギトを表します!
悪魔
 思考実験において滅茶苦茶をする存在のことを、仮に「悪魔」と呼びます!例えば、私の認識を改竄したり、時間を巻き戻したり、同一律に反したりなど。滅茶苦茶しすぎ!!!
現存在
 本論ではおよそ、「人間」という意味で用いています!日常的に用いる「人間」という言葉からは、例えば温かさや冷たさを感じるかもしれません。ですが、そういった要素は本論理解の妨げになると思われます。より無機質な言葉として、「現存在」を用いています!
現象
 phenomenologyの文脈における現象を指します!一般的な「事象(event, matter など)」と類似した用法とは異なります!また、「〇〇の現象」と「〇〇という現象」は同義として扱います!
〇〇自体
 現象ではなく、客観的なそのものを表します!「現象」に対比する「物自体」、「現実の現象」に対比する「現実自体」などです!
noumenon
 本論では「物自体」と同義として扱いますが、物自体という文字列は物質的なものを想像すると思います。そのニュアンス(*1)の違いに合わせて、私が充分抽象的だと判断した概念(例えば論理など)を指す場合はこちらを用います!

 

 明示的に、主観と恣意は区別しています!例えば、「主観的な判断」と「恣意的な判断」は異なります!ただし!「恣意的な判断」は「主観的な判断」の一種です!つまり、主観は恣意を内包しているということです!
 認識と知覚もまたそのニュアンス(*1)に応じて使い分けていて、置き換え可能です。概ね、より抽象的なもの(論理など)に対して認識という言葉を、より具体的なもの(光景や音など)に対して知覚という言葉を使う傾向があると思います!
 改めて本論では、私、このコギトについて論述しています!本論においては、「私が認識する」という前置詞を省略している場面が多々あります!ご注意ください!!!

*1 ニュアンス
当然これもシニフィエですから、シニフィアンを置き換えることでシニフィエも置き換わるでしょう!「記述」の定義で述べた「本論内においては、『記号』に置き換え可能と考えています」、この意図するところは、「実際に(名詞としての)『記述』を『記号』に置き換えたとしても、これらを置き換え可能であると断っておけば、本論の理解には端数程度の差異しか生まれないだろうと考えている」ということです!こうして数行かけて補足していることから察されるかもしれませんが、本論はこのような差異を無視していません!

論理体系と言葉の定義の関係

↑今更ながらなんか見出しのフォントサイズ小さい気がします
 本論では論理体系を先に説明し、言葉の定義をその次に行いました。論理体系の説明には言葉が使用され、言葉の定義には論理が使用されます。論理と記号はどちらが先んじているのでしょうか?あるいは同時なのでしょうか?直接的な言及はほとんど見られないと思われますが、本論の水面下ではこの点の思索も行われています🌸

思索の前提

 私の思索の特徴的な前提を明記します!本論の理解に役立ってくれーーー...!もっとも、不足があると思います。悲しい...

  • 私が認識している論理を超越した上位論理があるかもしれない。
  • イデアが存在するかもしれない。また、それを知ることができるかもしれない。
  • 上位存在が実在するかもしれない。
  • コギトを否定できるかもしれない。
  • 「たとえ悪魔に改竄された現象を見ているとしても、私が現象を見ていることに変わりない」、この命題すらも悪魔による改竄かもしれない。
  • どのような哲学的論述をも滅茶苦茶にするなんらかがあるかもしれない。

現象学所感

 現象学では、客観のエポケーを行います(違ったらごめんなさい...)。ですが、私が思うに、判断を留保したはずの客観を言い当てようと目論んでいるよう思えます。でなければ、主観の正しい規定を行おうと、現に在る認識の棄却を試みないのでしょうか...!少なくとも私は客観を言い当てたく思います!
 現象学を学ぶうえで注意したいことがあります。それは、現象学者の主観も、やはり読む私の視点からはエポケーしなければならないということです。私とフッサールの主観に備わっている機能は全く違うかもしれません。フッサールは偶然、私にとって明晰判明にそうであるといえるシニフィエと対応したシニフィアンを紙に描画しただけかもしれないですよね。(この論は、本論「思考実験―主観による違いの可能性」を読んでいただければより理解しやすいと思います!)
 もし前述の論をもっともだと思っていただけたのなら、現象学を学ぶにあたっては(私は現象学に限らないと思っていますが!)、ご自身の主観と照らし合わせてそのもっともらしさを判断するよう勧めさせていただきます。現象学の主張は、他のどなたであっても正確性を即座に失うまさに現象学の主張を見聞きしているあなたを、いいえ!あなたにとっての「その」コギト自身を根拠にせよということ、のはずです。違ったらごめんなさい。
 これを読んでくださっている方には、著者である私のことをエポケーしていただきたく思います!!!

現実という現象

 現実とはなにか。それはまさに、この現実です。この言説を読んでくださっているこの世界のこと、いや!!!この説明は、「この言説を読んでくださっている世界が存在する」という臆見を含んでいます!!!
 現実という形式の現象があります。知覚されたこの現実のことです。この現象は、どうやら蓋然的に論理値を真しかとらないようです。私が認識可能な偽なる現象は、この現実という現象にはどうやら含まれないらしい...!私は、ある命題の論理値として、真か偽か、あるいはそのどちらとも決定できないか。少なくとも、この3種を認めることができます。ですが、現実という現象の在り方には、どういうわけかそのうち真しか見られないのです。それなのに、現実という現象からは、偽なる記号を読み取ることができます。例えば「A≠A」という記述です。これからは、偽なる論理を読み取ることができました。ですが、シニフィアン、例えば紙に印刷されたインクに矛盾は見られませんでした。かっこいい。
 では、どうして私は「A≠A」という存在可能なシニフィアンから矛盾のシニフィエを得ることができたのでしょうか?もしかして、現実という現象には、シニフィエは存在せず、シニフィアンのみが存在するのではないでしょうか?そして、そのシニフィアンを私が知覚するに併せて、私という個の内部で初めて、シニフィアンシニフィエは結びつくのでは...!そう考えました。
 さて、ディスプレイに表示されたり読み上げ機能で読み上げられたり、そのようにして在るまさにこの記述も、やっぱり記号です。そして私が論じる対象は、この記述自身のシニフィエシニフィアンも該当します!この記述は他の記述に対して俯瞰した立場ではありません!論じる対象の記述と同じ列にあるわけです!例えば、「記号はシニフィエシニフィアンに分けられる」という記述が自己にも言及していることと同様です!この論じ方はすこし珍しいかも...?つまり、いま読んでくださっているまさにこの文も、私が記号について論じるとき、その対象つまり当事者であるということです!

 

 本論理解のために明言させていただきます!私は、自身が(非主観の一種である)現実に内包されているか否かという二元において、内包されていないと考えています。というのも、私が現実に内包されているなら、私の偽なるシニフィエの認識も現実に含まれなければなりません。しかし、現実という現象において偽は見つけられていません。現実が私の舞台なのではなく、私が現実の舞台なのではないでしょうか...!
 これはあくまでも結論ではなく過程です!考慮できていない点は少なからず見受けられます!(わかりにくい表現になりますが、例えば「偽なる認識の内容は私の内になく、そして偽なる認識の在り方も真である場合」が該当します!)

 

 ここまで論じましたが、私は本論において現実という現象を厳密に規定するつもりはありません。本節の論述は、現実世界をエポケーし現象として考えるための導入、またその他記号に関する論述への導入、これらを想定しています。現実という現象にシニフィエが含まれたり、現実という現象に偽なるシニフィアンが含まれたり、といったことがあるかもしれません。もっとも、前者に関しては本論と干渉していないはずで、後者に関しては、私はこれまでに現実という現象に限らず偽なるシニフィアンを知覚できた試しが無いと思います。してたら...どうなる!!!!!

思索の過程―シニフィエの伝達

 「現実という現象」でも触れた、「現実という現象にシニフィエが含まれない」という仮説に至る過程の思索をここに記します!

 

 まず、自らが現実自体にいると前提して(つまり現象学的還元をせず)考えます。
 「ジュ パンス ドンク ジュ スィ」という音があります(当段落では、読んでくださっている方はこの意味を知らないものとしています。また、この音の意味は本節末尾の注釈にて説明しています!)。機械が発した「ジュ パンス ドンク ジュ スィ」という音、オウムが発した「ジュ パンス ドンク ジュ スィ」という音、フランス語を解する哲学者が発した「ジュ パンス ドンク ジュ スィ」(*1)という音、これらのシニフィエはなんでしょうか?私に意味が分からずとも、例示したこれら3つにはいわゆる「本当の意味」があるのでしょうか、そしてそれらは一致しているのでしょうか。
 「本当の意味」とはなにかを考えるにあたり、伝言について考えました。日本語を解する哲学者が日本語で口述した論、それを書いた紙、その紙を電子化した画像、その画像のネットワーク越しの複製、このような伝言という工程によって、シニフィアンの変更、シニフィアンシニフィエに及ぼす影響、その他どのような差異が生じるのでしょうか?
 伝言ではなく、直接見聞きしたもののみが本当の発信者が意図した記号であり、それが「本当の意味」なのかもしれません。しかし、例えば聞いたこと、つまり声は、発信者の喉で発生した振動です。そしてその伝達は、隣りにある媒質を押し、さらにその隣にある媒質を押し、...という連続によるものであるはずです。直接聞いたと思っている記号は、媒質による伝言なのではないでしょうか?仮に、聴覚を直に刺激することができたとして、思考は聴覚がするわけではないはずです。思考を脳が行うのだとすれば、聴覚から脳への伝言が行われ、脳の中でも化学的な伝言が行われるはずです。発信者の脳から喉へ、それも伝言です。つまり、単体の物質が思考と発信を行い、単体の物質が受信と思考を行い、さらにその二つは密接していなければならないことになります。ですが、現実において、そのようなことはないはず...!
 コンピュータの例。内部において数であるデータを、画面上に描画する。描画された画像としてのデータは、コンピュータ内部で数の性質を持っていません。「1という数」を想定し「イチ」と声に出したとして、それは既に数ではなく音であるはずです。
 別の例。内部においてであるデータを、画面上に描画する。内部において数字であるデータを、画面上に描画する。描画された画像としてのデータつまりシニフィアンは一致するように見えますが、元のデータは異なっています。
 また別の例。ある紙に直線が1つ描画されている。ある人はそれを小文字のエルだと言った。別の人はそれを大文字のアイだと言った。また別の人は、ハイフンだと言った。
 改めて、あるシニフィアンと対応する「本当の」シニフィエとは一体なんなのでしょうか...?ここで現象学に戻ります!
 発信者が意図したシニフィエが「本当の意味」(以下、TM)であるという考えがあるかもしれません。ですが、TMとの一致不一致に関わらず、私が知覚したシニフィエは私が知覚したシニフィエであり、TMを私が知覚していないのなら、当然それを私は知覚していないことになります。つまり、「TMはこうこうである」という事実があっても、それすら知覚されていないのでは仕方がないわけです。「TMはこうこうである」という発言は知覚するシニフィエを変えうるでしょう。もちろん、そう説明されたからといって知覚するシニフィエがTMと一致するとは限らず、そして一致しているかの確認もできないはず...!それに、「TMはこうこうである」という発言の(つまり、TMに言及しているこの発言の)TM’も、受信者の知覚と一致しているか確認できないはずです。
 機械が発したとしても、日本語を解さない哲学者が発したとても、日本語を解する哲学者が発したとても、あるいは日本語を解する私が発したとしても、「我思う、ゆえに我在り」という音からは、「あの」共通部分(デカルトが第一原理として提唱した「あれ」です!)を持ったシニフィエが得られるはずです。そして、「この音は日本語である」という一種のシニフィエは、全く主観的です。本論は文字で表現されます。実際に「我思う、ゆえに我在り」と発音したときの途中の間までの音を文字で表現する際、「我思う」という日本語の漢字とひらがなを混ぜた文字列にするということ、これもやっぱり、主観的です。
 いうなれば、記号は発信に併せてその色を失い、受信に併せて再び着色されるわけです。そして両者の色が一致しているかはわからず、また本来の色を伝えようとする記号もやはり、発信に併せて色を失います。ここでいう色とはすなわち、シニフィエのことです!

 

 なんとも悲しい考えかもしれませんが、他者と共有しているシニフィエなんてものはなく、それぞれが知覚したシニフィアンから、それぞれが銘々に、孤独にシニフィエを得ていることも否定できていません...悲しい... こうして私は、「現実という現象にシニフィエが含まれない」という仮説に至りました!
 なんにせよ、本論では私が知覚したシニフィエに限定して、そしてシニフィアンに関しても、私が知覚したシニフィアンに限定して論じています!

 

*1 「 ジュ パンス ドンク ジュ スィ」
フランス語。「Je pense, donc je suis」。日本語では「我思う、ゆえに我在り」です!

なぜ誤るのか

 私が現実に存在するならば、私の構造は常に真ですよね。ではなぜ、誤った表現が可能なのでしょうか?私はまず、このように考えました。「表現は、私の思考のすべてを表現するわけではないだろう。私の思考のすべてが真であっても、その切り貼りである表現は真でなくなりうるということではないだろうか。」。正しいかも?と思いましたが、「ではなぜ誤りを認識できるのか?」ということに論点は移りました。というのも、誤った表現とはすなわち、私が誤りと認識した表現です。なぜ誤るのか?という疑問は、なぜ誤りを認識できるのか?という疑問と結びついています!
 私は現状、これらに答えを出せていません。それどころか、答えを出すことはできないんじゃないか?!とすら感じています。私は、「なぜ誤るのか、なぜ誤りを認識できるのか?」という問いへ答える代わりに、「誤れる、誤りを認識できるということから何が導けるか?」ということを論じることにしました。答えれたい!!!

決定論

 「すべては決定されている」という仮説があり、これを決定論といいます。自由などないのではないか?判断を下す脳という器官も、自然法則に従っており、私の判断も実は全くもって自由ではない、もともと決まっていたことなのではないか。
 ですが!自らの意思が決まっているという論は、私の判断が私の判断であるということを否定しないですし、私の感情が私の感情であるということを否定しません!!!というよりも、私の感情が私の感情であると決定しているのではないでしょうか?
 厳密でない主張をさせてください!!!考えてもみれば、自らの判断を決定論的に説明することは普通の営みではないでしょうか?「喉が渇いたので水を飲む」などと説明することは普通の、素朴な行いであると思いますし、同時に決定論を迎合しているようにも思います。(「喉が渇いたので水を飲む」という説明は、本論「思考と現実の現象の因果」で厳密でないと論じています!)

 

 決定論という世界のモデルを考える意義の1つを、あえて道徳的で厳密でない文言をもって提言しようと思います!!!それは、今後に向けた反省です!!!決定されていると認識すれば、過去を省み、今後の事象への判断に使用できますよね?!(その判断すらも決定されているということ、これはなんの障壁でもないです!!!) 啓発的な言説すぎる!!!

 すべてを決定している理は、恐らく論理と異なるだろうと思います。なぜなら、非論理的なもの、価値や善、さらにはその認識まで決定しないといけないからです。

論理の認識

 論理の正当性は、否、私に認識されている論理の正当性は私に依存しています。
 私に認識される論理値は、私の認識能力にあわせて決定されます。しかし私は、自身の納得を覆しうるだろうし、論理をも勘違いしうるだろうと思います!「現象学所感」で述べたように、私は私の認識を、私の認識を超えたなんらかと一致させたいと目論んでいます!!!
 もしも私の在り方に論理が適用されているなら、論理を勘違いしうることは興味深いと思います!

方法的哲学史批判

 方法的に、ひとつの哲学史批判をしたいと思います(おそろしいです)。それは、「論理的に真であるということに頼り過ぎているのでは?」というものです...!思考は論理的に偽である記号を許容しているのに、これをさも無価値であるかのように無視している。いますよね?いませんかね、ハハ...
 真あるいは正なる命題が、もっともで、まともで、信頼に値する、そして偽あるいは誤なる命題が、どうしようもなく、不誠実で、信じられないなどというのは、やはり論理的真に裏付けられた言わば自己評価です。これは、本論内の評価と一致しません。というこの(直前の)論も論理に依るものですが、あくまでも説明のためということでご容赦ください!というよりも、論理はこのように論じることを制限していません!
 おそらく、論理学(論理の把握)から現実という現象が演繹されたのではなく、現実という現象から論理学が帰納されたのだと思います。アリストテレスやブール、フレーゲラッセルなどは、観測した自然法則を一種の真理とし、そこから論理学を帰納したのではないでしょうか。再度言いますが!この批判は方法的な批判です!私はこれらの哲学者(あるいは論理学者)を尊敬しています!!!
 デカルトに倣って方法的に、論理的真への信頼をいくらか減らしてみようと思います!

 

 なお!論理的に真であることを論じるということも、やはり素晴らしいことだと考えています!例えば現実の現象は論理的に真であるはずで、これについて論じるなら正当だと思います!!!すみません!!!
 また、ウィトゲンシュタインは論理的に真であることだけについて論じたのではなく論理そのもの(この「論理そのもの」という表現は、論理のnoumenonを指していない)についても論じていますし、デカルトやカント、フッサールは、論理的真に頼らない、およそ信じるほかないコギトについて論じています。少なくとも、本論冒頭で挙げたこれらの哲学者に対しては、この批判は的を射ていないと思います。

論理値の言い換え

 さて、人間を現存在と言い換えるように、哲学ではしばしば、既存の言葉のシニフィエを一部取捨する目的でシニフィアンを変更することがありますよね?前節で行った方法的批判を遂行するために、論理値を真偽あるいは正誤と呼ぶことは一度中止したく思います。
 従来の真あるいは正を現実値(ゲンジツチ)と、偽あるいは誤を限考値(ゲンコウチ)と、そして、不明を外考値(ガイコウチ)と呼ぶことにします。現実値は現実の現象にのみ該当するわけではないこと、例えば「A=A」のような(真である)思考のシニフィエも該当することに注意してください!(じゃあこう命名しなければよかったのでは?←正直なところ、現実という言葉以外に思いつかなかったという事情があります...) また明示的に、非現実値は、「現実値でない」という決定であり、限考値という決定でも、外考値という決定でもありません!
 真, 正→現実値
 偽, 誤→限考値
 不明→外考値

現実値に頼らない論述

 現実値に頼らないということは、私の論述からすっかり秩序が失われるのではないでしょうか!私としてもすっかりやりにくくなったのですが、ですがそれでも、(そしてたとえ「思索の前提」のすべてが成り立っているとしても、)そうとしか考えられないこと、文字通りそうでない状態を考えられないことはあると思います!
 例えば、「コギトがない」という限考値の命題を許容しても、コギトの存在は確かである。コギトは私が論理を認識するときも在る(コギトの自認に関しては、反駁を含めて次章「記憶喪失」「コギトの瞬間と自認」でより詳しく論じています)し、論理はやはり私に認識されています。そして論述である以上、記号が認められます。
 前述の内容は現実値であると思いますが、これは恐らく、非現実値を許容しても変わらないのではないでしょうか。(哲学の文脈における)直観もやはり悪魔に見せられた幻覚かもしれませんが、惑わされた直観の存在は確かとなります。
 私は、「ソクラテスソクラテスである」とも、「ソクラテスソクラテスでない」とも書けます。ですが、このように非現実値の記述であっても、「ソクラテス」という単語からは、「ソクラテス」というなんらかが読み取れます。非現実値を許容すれば、しかじかの論理的関係は崩壊しうるでしょう。ですが、個々の単語から、ひいては崩壊した関係の表現から、やはりなんらかは読み取れます。

 

 集合などの論理的構造を図示によって考えるならば、非現実を許容できていません!図の在り方は現実値に限られています!
 現実値に頼らない思索をするにあたって私は、ただ、私のこのコギトのままに、素朴に考えます。OK。

2. 思考

思考するとはどういうことか

 そもそも、思考するとはどういうことでしょうか。例えば、絵画を思考することは簡単に思えます。私はその光景を、ぼやけてはいるものの、そしておそらく元知覚したときとクオリアも異なりますが、思い浮かべることができます。音楽も同様です。
 では、文はどうでしょうか。そもそも、文を思考するとはどういうことでしょうか。文を文字列の光景として想像することでしょうか?それとも、発音として想像することでしょうか。あるいは文字の輪郭を触れる形式で想像することでしょうか(でしょうかって言いすぎかも!)。私はそれすら分かっていないのだと思います。

 

 「人がいるかつ人がいない光景」を思考することはできないように思えます。「人がいるかつ人がいない光景」という文字列のシニフィアン(文字の形状や発音など)を考えることができても、その光景は思考できないのではないでしょうか。
 私は、思考は現実の現象を知覚する形式で、例えば視覚や聴覚と同様の形式で行われているよう思います。そして、そのシニフィエは示されているようにも思います。すなわち、私が思考したシニフィアンは現実値のみであり、更にはシニフィエは語り得ないのではないでしょうか!(この点の更なる考察は、「成案のエッセンス―現象学的記号分析」にて行っています)

非恣意

 本節は次節の導入です!

 

 すべてのことが恣意的であるか?言わずもがな、そうとは限りません。そもそも、恣意的な考えがあるということも、恣意的に起きているとは限らないでしょう。恣意Aが恣意Bによって生まれていたとしても、その恣意Bがまた別の恣意Cによって生まれていなければならず...と続きます。さらに、恣意の遷移も恣意によって行われなければなりません。すべてのことが恣意的なら、恣意を可能にするすべてのアプリオリなものも恣意的でなければなりません!
 この論述は当然と思われるかもしれません。ですが、非恣意とはすなわち、客観的ななんらかが存在すること、それが具体的になんなのかわからなくとも、なんらかは存在するという証明になりえます。まったく恣意に感知されないものを客観と呼ぶことは充分あるだろうと思います!

記憶喪失

 記憶という概念は時間という概念の認識を前提にしています。ここではもちろん、時間のnoumenonに基づいたことを論じるわけではなく、時間とみなしているなんらかに基づいたことを論じます。
 記憶の中でもとりわけ、記憶喪失について論じます!例えば、「全てが恣意とは限らない」という主張は、記憶喪失を用いてこのように反駁されます!

 「恣意であるということを忘れているだけではないのか?」
私の対処はこうです!
「我思う、ゆえに我在り」これはつまり、「今我思う、ゆえに今我在り」ということである。過去の記憶も、今のコギトである。過去の自分の存在は今の自分の憶測である。世界五分前仮説はまったくもって正しいかもしれないが、今、記憶と呼ばれるものを知覚していることは変わらない。
 私はこのように、記憶喪失という反駁を迂回します。そして、過去の自分と未来の自分についてエポケーすることになります。(そしてこれによって、もし非恣意の存在証明が時間を前提にしていたなら、非恣意の存在証明もエポケーすることになります。)


 直前と現在の視界が著しく異なると認識したとき、「コギト(意識)を失っていた」と思うかもしれません(例えば、明るかった窓の外がいきなり暗くなれば、いつの間にか睡眠によって意識を失っていたと思うでしょう)。しかしそれは、「コギトの存在しない時間」の根拠にはなりません。なぜなら、意識は全く断たれていないうえでそのような光景を悪魔に見せられているかもしれないためです。
 こう考えることになります。「私は、過去を知覚しているのではない。現在持っている記憶を知覚しているのである」。そうして、時間の変遷から解き放たれた、現に在る状態を考えることになります!ただし、もしも時間に係る全てを認識できているとわかれば、時間のエポケーは解かれるはず!
 
 時間のエポケーに伴って、本論全体における「〜〜をした」「〜〜することになる」などは、私の記憶や予想を表現しているものとして読み替えていただけると嬉しいです!お願いします!

コギトの瞬間と自認

 過去や未来をエポケーするとなれば、コギトの自認は現に行われねば外考値となります。過去のコギトは、つまり「過去のコギトの記憶」は、今のコギトの保証になりません!
 過去の直観もとい直観の記憶は直観ではありません!「かくかくと思考している」ということは直観ですが、「かくかくと思考した」ということは直観ではありません!もちろん、「『かくかくと思考した』という記憶」は直観です!
 思考は同一の時間に行われるでしょうか?例えば、「我思う、ゆえに我在り」という文字列を考えるとします。その時、いくらかの時間を要するなら、「『我思う、ゆえに我在り』という文字列を考えている」というコギトの存在は現実値でなくなります。そしてもちろん、こう論述しているこの思考も、瞬時に行われなければ非現実値となります。ですが、時間が流れていくことに関わらず、なんらかを思考している状態があるのではないでしょうか?そうでなければ、私は思考を行ったことがないでしょう。時間に依存した振動をある瞬間に音として感じられる(*1)ことと、思考の瞬間が存在することは似ています。思考可能、あるいは認識可能が時間の最小単位なのでしょうか?また、思考は現の感覚と記憶の感覚間にある差異によって生まれるのでしょうか?

 

 私はコギトを常に認識していなければ現象学を語れないのでしょうか?認識の外にコギトの保証すなわち自認を置いておき、適宜確認するのではいけないのでしょうか。あるいは、現在のコギトの保証を現在のコギト以外に委ねられられないでしょうか?はたまた、第一原理としてのコギトを棄却することができるのでしょうか。それとも、コギトの自認は示されるのかもしれません。

 

*1 時間に依存した振動をある瞬間に音として感じられる
今後の自然科学の転回によっては厳密な言説として成り立つかもしれませんが、それでも既知の自然科学としては非厳密な言説だと思います!修辞技法としてご理解いただけると嬉しいです!

思考と現実という現象の因果、その確認

 本節はまったくもって厳密でないと思いますが、現象学ひいては哲学の1段階として有用だと思います!!!その役割をより満たすために、本節では、論理値の言い換えを元に戻しています!

 思考と現実という現象の因果は、例えば次のように記述されます。
「喉が渇いたので水を飲む」
些かわかりにくいかもしれませんが、「喉が渇いた」が思考(喉が渇いたという知覚ではなく、いうなれば、そう知覚した結果としてされた「喉が渇いた」という思考)、「水を飲む」が現実という現象の一部です。
 なるほど、その因果は正しいように思えます。ですが、本当に「『喉が渇いた』ので『水を飲む』」のでしょうか?というのも、例えば「『喉が渇いた、かつ、目の前に水がある』ので『水を飲む』」のではないでしょうか。ない水を飲むことはできません!「喉が渇いた」という文からは、水を飲むことが可能かはわかりません。そしてもちろん、目の前に水があるからといって、その水が飲めるとは限りません。少し修正して、「喉が渇いた、かつ、飲める水がある」としてみます。しかし、やはりこれでは水を飲むということは導けません。例えば、その水が誰かに奪われるかもしれない(*1)し、主体である喉が渇いた存在は水が嫌いかもしれないからです。あるいは水以外にも飲料があり、そちらを飲むかもしれません。例えば、
「任意のヒトPの喉が渇いているなら、Pは必ず水を飲むことが可能であり、かつ、Pは必ず水を飲む」
という前提条件があるなら、
「ヒトaは喉が渇いているので、水を飲む」
が成り立つかもしれません。しかし、そのような前提条件は実際には適用できないはずです。(というのも、おそらくヒトであろう、これを読んでくださっている方も、喉が渇いていながら水を飲まなかったことがあるはずです。それがこの一般化された前提条件の反例となっています!)
 「喉が渇いたので水を飲む」という命題は正しいのかもしれないません。ですが、この命題が正しいのか誤っているのか、確認できないのではないでしょうか?であれば、不明となります。つまり、この命題は、真ではなく不明なわけです。

 

 本論からはこの誤謬を排していると思います。ですが(*2)、厳密でない主張や理解の補助を目的とした表現において、この誤謬を意図的に含めている場合があります。例えば、
本節はまったくもって厳密でないと思いますが、現象学ひいては哲学の1段階として有用だと思います!!!その役割をより満たすために、本節では、論理値の言い換えを元に戻しています!(本節冒頭)
本論のこの文章は、この誤謬を含んでいます。そして、わかっていながらもこの誤謬を含めているのはなぜか?という説明をしない、ということが、この誤謬を回避する実例の1つとなります。ですが、そのうえでも強いて言うならば、厳密でない主張であるということをより明確にしようという気の表れだと思っています!

 

 私が言いたいことは、因果が真以外でありえるということではなく、因果の確認が真以外でありえるということです。冗長な表現をしますが(そしてこの注釈も冗長ですが!)、「思考と現実という現象の間に因果が成り立たない場合があるのではないか」という主張ではなく、「思考と現実という現象の間に因果が成り立っているかの確認はできない場合があるのではないか」という主張です!そしてそれは、おそらくほとんど見過ごされているよう思えます(「ほとんど」という表現は、非厳密な修辞技法として解釈いただけると嬉しいです!)。
 思考同士、現実という現象の内部同士、等々。他の組み合わせの因果についてはここでは論じません!!!
 
 本節で論じていることは、平たく言えば、「『かくかくと思うからしかじかになる』という記述は、思っているよりも著しく真偽を確定できていない」という警鐘です!!!

 

*1 その水が誰かに奪われるかもしれない
「『その水が誰かに奪われる』なら、その水は『飲める水』とはいえない」という解釈もあるでしょう。「飲める水」が誰かに奪われうる飲料水を表すのか、飲まれる寸前にある毒水を表すのか、あるいは、飲まれる寸前にある飲料水を表すのか。「飲める水」のこの様な多義性は、因果の説明が不明瞭になる一因です!!!
*2 ですが
「ですが」という接続詞も因果を表すことがあるはずです!参照元の用法も因果を表しており、誤謬です!!!

欲望

 私は一度、本節を本論から破棄しました(そんな...)。しかし、この思索は足がかりとして有用だと判断し、極力手を加えず掲載しなおすことにしました。本節末尾に、本節が一度破棄された理由を記します。あわせて読んでいただけると嬉しいです!
 また、破棄以前は前節「思考と現実という現象の因果、その確認」との前後関係が定まっていませんでした。それゆえに、前節に反駁される論述を含んでいます。

 

 

 思考の記憶を内省していると、全く反例の見つからなかったことがあります。それは、「私の自覚する選択は、すべて私の欲望である」ということです!選択と行動は異なり、前節の通りその因果の確認は必ずしも現実値ではないことに注意してください!
 例えば、何かを読むという自覚した選択をするとき、何かを読みたいという自覚した欲望でした。何も読まないという自覚した選択をするとき、何も読みたくないという自覚した欲望でした。「目の前に水があるにも関わらず現状の喉の渇きが続くよう望む」という状態は、非合理だと思われるかもしれません。ですが、例えば、「自分よりも他者に飲ませたい」という欲の方を叶えたいと望むなら、合理に思われます。「他者に幸せになって欲しい」という文は、その通り、自分の欲を表しているのです!
 1つのパラドックスを提示させてください!!! 「『欲望を満たしたくない」という欲望は叶えられるか?」この命題は自己言及に陥り、外考値となります。ですが、「『欲望を満たしたくない』という欲望」である通り、このパラドックスは、その内容が外考値を取る欲望が欲望であることを否定しません。そして、欲望の内容やそれが必ず叶えられるという命題は必ずしも現実値ではなく、この通り反例があります。
 なお!ここで言いたいことは、「他者のことを思いやる気持ちは存在し得ない」ということではありません!「他者のことを思いやる気持ちも、また自らの欲望である」ということです!

 

 

 本節はなぜ一度破棄されたのか?それは、「私の自覚する選択」から「それが欲望である」ことを導くには、内省せねばならないという点にあります。私が水を飲んだとして、それを私の欲望であるというには、「なぜ、水を飲んだのか?」と考えねばならなりませんでした。そうすれば、「なぜなら私が水を飲みたかったからである」と説明することになります。しかしそれは、説明を行うときの私がそう認識しているに過ぎないのではないでしょうか?
 また、節内でも触れましたが、欲望とそれを抑圧する別の欲望の関係についても考察が足りないと思います!
 これらによって、私にとって本節は著しく説得力を失ったわけです!!!

記述の仕上げ

 本節では自己言及を例に用いて論述を行いますが、その対象は自己言及に限らず記述全般であることを明言させていただきます!

 

 自己言及を行う記述を考えます。
記号論は自己言及である。というこの記述の対象は、この記述を含む。」
前述の記述はおそらく、鉤括弧内のすべてを対象としていると感じたのではないですか!
 「この記述」は自身をも指しているでしょうか?矢が自身を射抜けないように、「この記述」は自身を指せていないのかもしれません。ですが、記述を思考することで、思考の矢が記述の矢を射ることができます。思考は記述の仕上げを行えるのです!その結果を記述するなら、
「『記号論は自己言及である。というこの記述の対象は、この記述を含む。』というその記述は、その記述全体を指している」
のようになります!これはあくまでも思考を文字列に喩えた、あるいは文字列の思考を例として持ち出したことに注意してくださいマセ(「思考とはなんであるか」において述べたように、私は思考がどのようにあるのか分かっていないと思います)。また、「シニフィエは私の内部で初めてシニフィアンと結びつく」という仮説と本節の主張は両立可能であることにも注意してください!思考は記述の仕上げとして、新たに記述を付け加え得るのです!

 

 記号論の記述は、自らその渦中にいなければなりません。ですが、記述の仕上げを行う私の思考は、その渦中にいないよう思います。自己言及は、私の思考によって実現されるのではないでしょうか?

3. 非現実

 「現実という現象」でも述べたように、私は現実という現象を本論において厳密に語ろうとは思っていません!!!現実という現象、という考え方は、様々なことを現象として考えるための導入です!ですが、曖昧な分類でも充分に興味深ルンルン♪と感じる思索の足がかりとなったと思います!
 本章では、「現実という現象」「夢という現象」「死後という現象」を、単に「現実」「夢」「死後」と呼ぶことがあります。また本章では、その表記が「現実自体」「夢自体」「死後自体」を指すことはありません!

 私には夢という現象の記憶があります。本節では、夢の記憶の性質を論じているわけではありません。夢の記憶を参考に、認識や思考について論じています。

 

 夢を見ているとき、全く現実値でないことを、現実の現象における現実値に対するそれと同じように信じえます。現実の現象を見ているときには全く信じがたいと思う展開を信じえます。夢を見ているとき、私の論理に対する認識は変化しうるのではないでしょうか?
 ですが、相変わらずコギトがあり、現象もあります。その点で、現実の現象と夢の現象は変わりません!
 夢を見ているとき論理の認識は変化しうると論じました。では、夢の中にある非現実値のシニフィアンの記憶、例えば「『赤いが赤くない』夢の光景」の記憶はあるでしょうか?「そのような光景を知覚した」という記憶はあるかもしれないが、「そのような光景」の記憶はおそらく、無いのではないでしょうか。少なくとも、これを書いている、夢を見ていない(起きている)であろう私は、そのような記憶を思い出せていません。夢を見ていない間の記憶の内に、非現実値のシニフィアンは存在し得ないのではないでしょうか。夢は支配している論理が異なるのかもしれないし、私の知覚や思考の仕方が異なるのかもしれません。

 

 寝る直前の微睡みのとき、自分の思考だと思っていたらその実、聞こえている声と一致していた、という記憶があります。通常より、知覚したシニフィアンをそのまま思考していたと思います!
 僅かに目が覚めた時、そのまま完全に目覚めようとしても、その恣意の通りには行動されなかった(すなわち二度寝___)、という記憶があります。それどころか、起きようとしているのか再び寝ようとしているのか、自らの判断の立場もわからなくなったのです!
 私にはこれらのような変化が起こりうるらしいです!

 

 私は夢と現実を一度に見た記憶がありません。この二つの知覚は排他的なのではないでしょうか?また、これらの知覚は連続しているのでしょうか?

死後予想

 死後がどのようなものか、あるいはそれを存命中にわかりうるのか、どちらも私には未だわかっていないと思います。もっとも、他者の死や現象学から予想することはできます(内容が死後と一致しているか否かに関わらず、予想というノエシスは可能である、ということを指しています)。
 夢と同じように、死後もコギトがあるのではないでしょうか?私は現象学という方法のもと、夢と死後を同列に考えています。それどころか、その列には現実もあります。コギトは死後にまで延命されるかもしれません。死後にコギトがあるのなら、現象学の射程は死後にまで届くと予想します。既出の説だとは思いますが、本節の主な意義は前述の予想にあると思っています。
 すなわちこういうことです。私がこれまで、まさにここで、及びこれから論じること、これらのほとんどは存命中のみならず死後についても論じている、つまり適用できると予想します。
 私の死後予想の内、現実や夢の現象と異なるいくつかを列挙します。死後の論理や記号、コギトなどが、私が今認識しているそれらと一致しないかもしれないことに注意していただきたいです!その場合、ここに書いたことも全く死後と一致しないかもしれません。

 

  • 私の死後が無の場合、すなわちコギトは存在しないなら、喜びも苦しみもない。
  • 前節で、「私は夢と現実を一度に見た記憶がない。この二つの知覚は排他的なのではないか。」と論じた。では、死後の記憶がないのはなぜか。死に併せてにいずれかの席が明け渡されるか、あるいは存命中も死後に切り替わっているものの、存命中の私は死後の記憶を持てないのではないだろうか。
  • 死後にコギト以外存在しないのなら、すべて恣意的であろう。すなわち、すべて思い通りになる。そして、思い通りにしかならない。幸福は自ら実現させる他なく、また苦しみも同様である。もっとも、変遷が起こらないかもしれない。
  • 主観が客観に包み込まれないなら、私は天国や地獄に包み込まれない。そして客観が変化しようとも、私が変化するとは限らない。    

他者の現象の死をもとにした疑問。

  • 現実自体との相互関係を断たれるのか?
  • 他者が知覚する現象への影響を断たれるのか?
  • 現実値を取る現象として、現実の現象の代わりをなにか知覚することになるのか?
  • 死とは、私の変化であろうか?それとも客観の変化であろうか?あるいはその両方であろうか?

臨死体験などを考慮すれば、他にも様々なことが言えると思います。これら疑問の答え合わせに対する好奇心や、予想自体は可能であるということが、どなたかが持つ死への嫌悪感を減らすに役立つなら嬉しいです。
 本節の内容は、節名のセンセーショナルさに見合わず簡素だと感じられたかもしれません。これは本論における死後予想への熱量が他節へのそれより少ないことも理由だと思いますが、改めて、現象学は死後についても論じていると考えています。つまり、本論のほとんどが、存命中のみならず死後についても(もちろん夢についても)同時に論じているということです。本論のほとんどが、現実の考察でも、夢の考察でも、死後予想でもありえます。

4. 現存在

人というモデルの誤謬

 この節は非厳密な説明を比較的多く含みます。
 「命題Pの論理値は、今の人Aには判断できない」という状態を考えます。このとき、Pは外考値でしょうか。「将来判断することができるかもしれない。ゆえに、外考値とは決定できない。」という意見があるかもしれません(←これちょっと圧のある文章になっててイヤ!)。しかし、それは人をモデル化(抽象化)しているゆえの誤謬ではないでしょうか?というのも、「今のA」は具体的なはずです。「人の判断」ではなく、「脳という回路の出力」と喩えれば分かりやすいと思います!「今の脳という回路には出力ができない」。このとき、「今の脳という回路」という直観からは、外考値が得られます。すなわち、「Pは『今のAにとっては』外考値である」となるわけです。脳という物質的な器官でなく、現象学的な主観であっても同様だと思います。多分...
 この誤謬はほかの事象にも見られます。例えば、「1世紀未満の思考時間では語り得ない」ことは、もし人がそれについて1世紀以上かけた思考を行えないとしたら、それは人にとっては語り得ないことです。(このように、「人というモデルの誤謬」が当てはまる命題は、時間の流れを無視しているゆえの誤謬であると考えられる場合があります)
 現象学はどうでしょうか。人というモデルの、認識というモデルに頼っているのではないでしょうか?確かに、現象学では人をモデル化しているかもしれません。ですが、「コギトがある」ということ自身は、コギトの抽象性に関わらず、まさに具体的と思われます。

他者

 私が知覚する現実という現象に、他者という現象が表れます。(以下、「他者という現象」は「現実という現象に表れる他者という現象」を指します)
 もし、私以外にも主観を持つ他者、他者自体がいるのなら、私の現象(いうなれば、私自体を他者自体が知覚した現象)は他者自体が知覚する現実の現象の内に表れるでしょう!そう予想します!(別にそこまで主張したいわけではありません)

 

 他者の現象と会話するとき、私と他者自体では、双方が得るシニフィエの不一致や、決定した論理値の不一致があるだろう。いいえ!そのようなことは私にはわかりません。
 他者の現象が記憶を喪失しているらしい。しかし、記憶を喪失したらしい間の当該他者の現象を、私は知っている。私のことも、記憶喪失の間を他者が観測しているのだろう。他者にとって私は在るのに、私にとっては在ると認識できない場合があるのだろう。いいえ!そのようなことは私にはわかりません(再び...)。(そもそも、見ているのはコギトではなく物質的な肉体でしょうし、記憶内の他者の現象と現在の他者の現象が同一の他者自体のものであるともいえないでしょう。)
 他者の現象の在り方は現実値を取ります。注意していただきたいのですが、他者が非現実値のシニフィエを持つ発言をした、そう私が知覚したとしても、それは私の解釈です。「思索の過程―シニフィエの伝達」を思い出していただければ分かりやすいと思います。ですが、例えば他者の脳が外考値をとる(例えば、脳を構成する単一の原子が同一律に反している)とわかれば、それはこの思索の転換点となるでしょう。もちろん、私の在り方が非現実値をとるとわかった場合も同様のはずです!

 

 他者はクオリアを持つでしょうか?私は、クオリアがあるゆえの現実の現象との因果があると考えています。哲学的ゾンビはあり得ないのではないでしょうか。「肉体は空虚な容れ物に過ぎない」ということはあり得ないのではないでしょうか。もっとも、現状はこの思索に納得していません。ここでその詳細を話すことは控えようと思います。
 クオリア問題は、科学の命題であっては解明されないのではないでしょうか。科学はクオリア問題によって反駁される、私は現状、そう考えています。

思考実験―主観による違いの可能性

 ある2つの文化Ca, Cbがあります。この2つの文化では、言語にのみ違いがあります。
Caに属する者は、コミュニケーションにおいて次の性質を持っています。

  • 楽しくなると、相手に向けて「ありがとう」あるいは「どういたしまして」と発音する。
  • 「ありがとう」と発音された者は、楽しくなる。
  • 怒ると、相手に向けて「ふざけるな」と発音する。
  • 「ふざけるな」と発音された者は、怒る。

Cbに属する者は、コミュニケーションにおいて次の性質を持っています。

  • 怒ると、相手に向けて「ありがとう」あるいは「どういたしまして」と発音する。(皮肉ではありません!)
  • 「ありがとう」と発音された者は、怒る
  • 楽しくなると、相手に向けて「ふざけるな」と発音する。
  • 「ふざけるな」と発音された者は、楽しくなる

つまり、楽/怒と、「ありがとう」・「どういたしまして」/「ふざけるな」の対応が入れ替わった文化があります。
Caに属するA1とA2のコミュニケーションは次の通りでした。

  1. A1がA2を怒らせる。
  2. A2がA1に「ふざけるな」と発音する。

Cbに属するB1とB2のコミュニケーションは次の通りでした。

  1. B1がB2を楽しませる
  2. B2がB1に向けて「ふざけるな」と発音する。

おそらく、A1とA2のコミュニケーションは違和感なく受け入れられ、B1とB2のコミュニケーションはすこし奇妙に見えたのではないでしょうか。
 さて、あるとき、次のようなコミュニケーションがありました。

  1. 黒服が白服に向けて「ありがとう」と発音する。
  2. 白服が黒服に向けて「どういたしまして」と発音する。

実は、黒服はCaに、白服はCbに属しています。つまり、より詳細な内容は次の通りです。

  1. 黒服が白服に向けて「ありがとう」と発音する。
  2. 白服が怒る。そのため、黒服に向けて「どういたしまして」と発音する。

私は、そしてこれを読んでくださっている方もおそらく、このコミュニケーションの行き違いに気づいています。ですが、前者の(黒服/白服がそれぞれCa/Cbに属していると明らかにされていない)記述単体では、行き違いのないコミュニケーションに見えるでしょう。そしてそれはCa, Cbどちらの当事者からも同様のはずです。
 このようなことは、言語以外でも、例えば論理ですらも考えられます。のみならず、現実においても、同様の行き違いの可能性が考えられます。現実自体の内に論理が複数混在しているかもしれません。私の論理と他者の論理の混在を肯定する、言わば上位の論理が存在するかもしれません。

5. 結び

思考哲学論草稿あとがき

 お読みいただきありがとうございました!!!

 

 疑うというノエシスが不可能であるには、思考不可能でなければならないのではないでしょうか(でなければならないのではないでしょうか←どうにか短くできませんか?どうにか...)。そして当然、該当するものはここに例示することができません。
 ここに、論理的な確実性の1つの限界があります。確実で疑えないものを論理的に求めるということは、論理的に誤っています。論理的であるという性質は、論理的に疑えるという性質を持っています。論理的な懐疑すらも疑えるのです!論理に頼った道はここで閉ざされたのか...?!
 もしかして論理の転回をするときですか?!もしそうだとしたら...転回の対象として認識できただけでもグレート一歩ということになりませんか...?←わかりません
↑↑↑
なんか全然変なこと言ってると思います、無視してください。

 

 みたいなことを考えていたのですが、「成案のエッセンス」によって後回しとなりました!著者概説の後にももうしばらく続きます

著者概説

 自分で自分の言説を概説するという行いは奇妙に見えるかもしれませんが、理解に役立つと思います。厳密な説明ではありません!

 

 本論は全体として、論理や記号、主観について論じている。

1. 準備

 以降の章の準備を行う。

本論の論理体系
 本論で用いる論理体系を説明している。
言葉の定義
 本論で用いる言葉を定義している。
論理体系と言葉の定義の関係
 論理の説明には記号が用いられ、記号の説明には論理が用いられる。論理と記号はどちらが先んじているのだろうか?
思索の前提
 私の思索の特徴的な前提を説明している。
現象学所感
 現象学はエポケーしたはずの客観を言い当てようと目論んでいるのではないか?と論じている。
 また、現象学は見聞きしている現存在にとって有効であると言い、読者に著者である私をエポケーするよう呼びかけている。
現実という現象
 現実を現象として考える導入である。また、現実という現象の在り方から論理的真以外を見られなかったこと、ゆえにシニフィエは現実という現象にないのではないか?と論じている。
思索の過程―シニフィエの伝達
 シニフィエの伝達を主眼に、現実という現象にシニフィエが含まれないという仮説に至る過程を論じる。そして本論では、シニフィエシニフィアンの論述は私が知覚したそれらの論述に限定することとなる。
なぜ誤るのか
 「なぜ誤るのか?」という疑問は、「なぜ誤りを認識できるのか?」という疑問と結びつく。そしてこれに答えを出す代わりとして、「『誤れる、誤りを認識できるということから何が導けるか?』ということを論じることにする」という宣言を行う。
決定論
 決定論は私の判断が私の判断であることを否定しない。また、決定論の法則は論理と異なるだろう。なぜなら、非論理的なものやその認識まで決定せねばならないためである。
論理の認識
 私に認識されている論理の正当性は私に依存している。私が語る論理とはすなわち、私に認識されている論理である。しかし私は論理値を誤解しうる。ここで改めて、エポケーした客観と認識の一致を望んでいる。
方法的哲学史批判
 哲学史に対し、「論理的真に頼りすぎているのではないか?」という批判を行っている。そして、論理的真への信頼を減らすことを宣言している。
論理値の言い換え
 真, 正を現実値と、偽, 誤を限考値と、不明を外考値と言い換える。
現実値に頼らない論述
 現実値に頼らないとしても、コギトのように確かなことはあるだろう。本論ではそのようなことについて論じる、と宣言している。

2. 思考

 思考に纏わることを論じている。

思考するとはどういうことか
 そもそも思考するとはどういうことだろうか。絵画の思考は光景の思考であろう。そしてそれは可能に思える。では、文はどうだろうか。文の思考とは一体何なのだろう?この点について未だ判然としていないことを明言する。
 また、思考は現実の現象を知覚するように、例えば視覚や聴覚を用いて行われるのではないか?そしてシニフィエは示されるのではないか?
非恣意
 次節の導入として、すべてのことが恣意的であるとは言えないのではないか?と論じている。
記憶喪失
 まず、記憶喪失を用いて前節に反駁している。そしてその後、時間のエポケーについて論じている。そして、「私は過去を知覚しているのではなく、現在持っている記憶を知覚している」と論じている。
コギトの瞬間と自認
 コギトの自認は現在のコギトに対して行われなければならない。直観の記憶は現在の直観ではない。コギトの自認は瞬間に行われねばならず、そうでなければコギトは不確かとなるだろう。
 思考は瞬間に行われるだろうか?そうでなければ、思考内容も不確かとなる。しかし、もし思考に幾許かの時間がかかるとしても、なんらかを思考している瞬間が存在するだろう。それが時間の最小単位なのかもしれない。
思考と現実という現象の因果、その確認
 「喉が渇いたので水を飲む」が成り立つか否かはわからない。というのも、例えば別の飲料を飲むかもしれない。このような因果の表現は、思っているよりも著しく真偽を確定できていない。
欲望
 以前、「私の選択はすべて私の欲望であった」と考えていた。
 しかし、「私の選択はすべて私の欲望であった」という命題は、私が内省したがゆえの命題であり、私が内省しなければそう認識されないのではないか?そのような考えから本節は一度破棄され、そして再度、思索の足がかりとして有用と判断されたがゆえに取り上げられることとなった。
記述の仕上げ
 思考は記述の仕上げを行える。例えば「この記述はこの記述について論じる」という自己言及の記述は、思考によって、「『この記述はこの記述について論じる』というその記述は、その記述全体について論じている」という記述へと仕上げられる。

3. 非現実

 現実以外の現象に関して論じている。

 夢の記憶を基に、認識や思考について論じている。
 夢をみているとき、論理に対する認識は変化しうるのではないか。しかしそうだとしても、相変わらずコギトや現象がある。夢にも現象学は適用できるだろう。
 たとえ夢において論理が崩壊したとしても、背理な知覚の記憶を私は持っていない。少なくとも、夢を見ていない間の私はそのような記憶を持てないのではないだろうか。夢は上位論理が異なるのかもしれないし、私の知覚や思考の仕方が異なるのかもしれない。
 微睡みのとき知覚したシニフィアンをそのまま思考していた、という記憶がある。また、僅かに目が覚めた時、そのまま目覚めようという恣意は達成されなかった、という記憶がある。のみならず、起きようとしているのか再び寝ようとしているのか、自らの判断の立場もわからなくなった。私にはこれらの変化が起こりうるらしい。
 また、夢と現実はどちらか一方しか知覚されないのではないか?
死後予想
 現象学の射程は死後にも届くだろう。そう予想した後、具体的な死後予想や、他者の死から得た疑問を列挙している。

4. 現存在

 現存在について論じている。
人というモデルの誤謬
 「抽象化された人」を用いた論述は、「具体的な人」を用いた論述と異なりうる。
他者
 私が知覚する現実の現象に、他者という現象が表れる。私は、他者自体が知覚する現象の内にやはり現象として表れるだろう。
 他者という現象の在り方はやはり現実値であろう。
 他者自体のことはわかりえないだろう。
 クオリアは現実の現象に影響するのではないか。ゆえに、哲学的ゾンビはありえないのではないか。そして、クオリア問題を科学によって解明しようとも、科学はクオリア問題に反駁されるだろう。
思考実験―主観による違いの可能性
 主観ごとに認識が異なるということはありえる。私の視点において自然であっても、それは単に見かけが自然となるように噛み合っているだけかもしれない。

成案のエッセンス

 平易に言えば、記号のほとんどが喩えであるということ。そして論述のほとんども喩えであるということ。また、認識できないという認識への不明瞭さ、記号の不明瞭さ。これらを複数の節に分けて論じています。既に様々な方によって論じられている内容だと思いますが、私の論述は、その論じ方に特有の意義があると思います。そうでもないかも...
 体裁を整えた箇条書きみたいな感じになっています!!!すみません!!!

現象学的記号分析

 記号とはなにか。意味を指すものをシニフィアン、意味をシニフィエと呼び、その組み合わせが記号です。
 記号は主観的です。というのも、シニフィアンシニフィエも、私に認識されています。そして、客観的な記号のnoumenonは知ることができません。構造主義的分析は、客観で行われるのではありません。私の内で行われるのです!
 シニフィアンとはなにか。私は、シニフィアンとは私に知覚されたもの全般と考えています。そうすれば、知覚とはなにかという話になるでしょうが、私が語るよりも遥かに素晴らしい論述があると思います。ここで語ることは控えさせていただきます...!
 では、シニフィエとはなんでしょうか。シニフィアンと紐付いて思考されたもの、つまりシニフィアンから連想したものでしょうか。シニフィエは思考されればシニフィアンとなるはずです。そしてそのシニフィアンが指すシニフィエは...と、再帰的に新たな記号を為していきます。その最奥には、思考されない純粋な、語り得ないシニフィエがあるのではないでしょうか。なにもイデアのように神秘的である必要はなく、意味を思考によって追いかける行いをやめれば(あるいはやめざるを得なければ)、そこが最奥なのだと思います。
 例えば既に思考された別のシニフィアンを指す記号について、「シニフィエはこれである」と思考することはできるでしょう。すなわち当該記憶を思考すれば達成されます。しかしそれは、シニフィエそのものを思考できていないのではないしょうか。「これである」という指し示す行いが一種の覆いとして機能し、これによって思考可能な形に加工されているのかもしれません。あるいは、シニフィアンシニフィエになるとき、なんらかの思考不可能な形に加工されるのかもしれません。
 シニフィアンシニフィエのまとまりが記号です。しかし、シニフィアンシニフィエの対応は外考値なのではないでしょうか?まさに今読んでくださっているこのシニフィアンから得た、と思っているそのシニフィエが、もしかしたらまったくの勘違いで、別のシニフィアンを知覚した際に得たシニフィエかもしれません。シニフィアンシニフィエは、単体でしか論じえないのかもしれません。更には、シニフィエは語り得ない、語り得るのはシニフィアンだけだ、とすら言えるかもしれません。

 

 改めて、断りなき場合、「私が認識した」という前置詞を省略して「シニフィアン」「シニフィエ」「記号」「記述」などの言葉を使用します。私は思索の過程で、この点を失念すればまったく理解が異なるだろうと実感しました!!!

喩え

 例えば、「りんごが赤い」という言説は、「りんごが赤い」という事実を「りんごが赤い」という記号で喩えています。4次元の図形の光景は、3次元の光景に喩えられます。3次元に描画された4次元の図形は、4次元の図形の代替です。
 「『夕焼けの光景』という記号のシニフィエは、夕焼けの光景ではなく、想起された、夕焼けの光景の代替である。」この説明において、「夕焼けの光景ではなく」と書いています。これは代替ではない夕焼けの光景を指して「これとは異なる」と言っているのではないでしょうか?ですがこれは、私が思うに、「客観は知覚できない」「示されるものは語り得ない」などの言説と同様なのだと思います。この点は後の節でより詳細に論じます!
 「喩えれば」や「言わば」といった表現をするとき、喩えられる以前を著者である私も理解できていない可能性が否定できません。私が4次元の図形の光景を3次元の光景に喩えたとき、喩えられていない4次元の図形の光景を、私は理解できているのでしょうか?
 私は記号が喩えであると言いましたが、実はまったく喩えではなく、事実を指し示せているのかもしれません。私は事実を思考できていないのかもしれませんが、記号があるということも一種の事実であるように思えます。

 

 成案に向けた覚書!「この記号のシニフィエ」という記号のシニフィエは、喩えだろうか。

シニフィアンの特性と一般化への警鐘

 本節は本来、「思考哲学論草稿」に含まれていました!

 

 シニフィアンによって、シニフィエは異なりえます。「赤」と「青」という文字のシニフィアンシニフィエが異なることはもちろん、例えば、黒いペンキで書かれた「白」という文字と、白いペンキで書かれた「白」という文字、この二つから得られるシニフィエは異なりえるでしょう。
 誤った一般化があります。例えば三角形一般の特性を得るための次のような手順です。

  1. 任意の三角形がある。ここでは、角度が40°, 70°, 70°の三角形Aを例に出して考察する。
  2. 40°の角から、底辺に垂線を引く。すると、分割された二つの三角形は線対称であった。よって、三角形は、いずれかの角から底辺に垂線を引くことで、線対称な二つの三角形を作図することができる。

もちろん、三角形一般はこのような性質を持ちません。この三角形Aは二等辺三角形であり、この手順は、二等辺という一般化に用いた実例の特性を使用したがために、誤りました。
 ここで、次のように考えます。

  1. Aは疑える。すなわち、「Aは幻覚でないか?」と思考することができる。
  2. Aには任意の現象が当てはまる。
  3. よって、任意の現象は疑える。

「A」という部分に様々な文字列を当てはめることで、全てのものを「疑える」と主張しています。しかし、ディスプレイに表示された「A」というシニフィアン、「これも一般化に用いた実例」です。「ディスプレイに表示された『A』」という実例の特性を使用したから、「疑える」と書けるのかもしれません。「A」に当てはめることができないなんらかの現象があるかもしれないわけです。
 そしてこの節はこの節自身を言及しているかもしれないし、あるいは「この節に記された」という実例の特性が引き起こすなんらかの影響によって、自己言及を例外的に回避しているかもしれません。

客観の描画

 「客観的な記述は臆見である。エポケーせよ。」
という現象学の命題を考えます。この「客観的な記述は臆見である」という言及はなんなのでしょうか。その主張に関しては納得できます。ですが、客観と見なしているものに、「それは客観そのものではない」と言及することができているのです。すなわち、「客観そのものは、客観と見なしているものとは異なる」と、客観そのものに言及することができているのです。
 アプリオリな物事は、アポステリオリな物事からの推測なのでしょう。「時間は経験に先立つ」、これは推測なのではないでしょうか?「経験する機能は経験以前から存在する」、これもやはり推測なのではないでしょうか?「視界の外側にまで空間が広がっている」ことは推測のはずです。なんらかをアプリオリということは、非主観の描画ではないでしょうか。経験されていない状態のアプリオリだと言われているなんらかは、経験されている状態のアプリオリと言われているなんらかから証明することはできないのではないでしょうか。
 時間自体への言及も、時間自体と見なしているものへの言及に過ぎないはずです。客観の描画は便宜上であっても不可能なはずであり、そしてこの記述も全く主観的のはずです。ですが、客観の描画が誤解であると判断できるということは、一体どういうことなのでしょうか?

誤解

 「物自体は知覚できず、現象のみ知覚できる。」
という命題は、物自体にどうして知覚できないと言及できるのでしょうか?これを受けて私は、
「私は、客観に言及しているのではない。主観の内壁が認識の果てである。客観に言及しているという考えは、誤解である。」
と考えました。では、誤解とはなんなのでしょうか?誤解とは恐らく、「正しいと考えているものの、その実、誤っている」ということでしょう。すなわち、「客観に言及していると考えているものの、それは言及できていない」ということになります。説明が完了したように見えて、「客観に言及できていない」という客観への言及を含んだ言説になっています。これでは尻尾を追いかけているに過ぎません!!!
 この状況を打破するため、「私が考えることは全て正しい」と仮定してみます。であれば、「私が考えることは全て誤っている」と思考すれば、自己言及によって破綻します。少なくとも、私は誤りあるいは不明になりえなければならないのだと思います。

 

 「私は客観を想像できない。しかし、想像できないと想像できている。」この状態から現実値に限って推論を行うことで、「私は客観についてなんらかが言える」あるいは、「私は誤りあるいは不明が可能である」のいずれかが現実値となります。前者は言わずもがな、後者も私には興味深く思えます!例えば、「私の思考が実際と異なりうる」という命題への足がかりに、ひいては「私の認識と異なる実際」という非主観への足がかりになるかもしれません。多分!もちろん改めて、これは現実値に限った推論です!

 

 あるとき私は、「思考しないと考えても、やはり思考する。恣意以外も存在する。」と考えました。そしてまもなく、「『思考しない』と本当に考えられているのだろうか?私は『思考しない』と正しく考えられていないのではないか。」と反駁しました。そして更に、「『何かを考えている』とは誤解ではないのか」と考えました。しかしこのとき、「『何かを考えている』とは誤解である」という命題においては、やはりなんらかの考えが保証されていると気付きました。思考の存在は、誤解によって反駁されないのではないでしょうか?「我思う、ゆえに我在り」の再発明かもしれませんが、この点は私の思索の段階として重要であったと、そして今も重要であると考えています。

 

 誤解や勘違いは現に自認されないでしょう。これらの自認は記憶に対して行われます。

認識の限界に関する諸仮説

 思考は代理人によって行われているという仮説。私の認識能力を完全に包み込む認識能力を持った代理人が思考を行い、私に認識させているのかもしれません。「私には認識できない」という認識は可能です。しかしそれは、私が認識の境界線を認識しているわけではなく、私の認識の境界線を認識する代理人が、「『この者にとっての私』には認識できない」という事実を私に認識させているのかもしれません。
 あるいは単に、私の認識能力を超えた事象は切り捨てられているのかもしれません。言うなれば、「認識できない」という認識が認識の限界であり、超過したものは単に認識されないということです。「しかじかであると認識できない」という事実は、私に認識されるときに、認識能力を超えた事象である「しかじかであると」が切り捨てられ、「認識できない」へと小型化するのかもしれません。

 

 「『認識できない』という認識」に纏わる疑問は、清々しく解決できるのか、あるいは釈然としない真実が得られるのか... 認識の限界に関する思索は、私の手元を離れていくのでしょうか。

物語の限界

 本節でいう物語とは記述のことですが、フィクションの性質を際立たせる目的で物語と言い換えています。

 

 このような限考値の物語を考えます。
「私は、私ではなかった。」
次はこのような外考値の物語を考えます。
「この物語は正しくない。」
物語は、現実値を取らずとも可能ということになります。
「物語の限界、その外を物語ることはできない。」
物語の限界の外について、物語ることはできないと物語れています。
 「これは物語ではない」としても、やっぱり物語です。物語の外は、物語られません!
 思考実験に登場する悪魔の限界は、論理ではなく物語です!
 語り得ることの限界は、論理ではなく記号です!

 

 私は、物語の登場人物として私を記述します。私の限界の記述はその実、物語の登場人物である私の限界の記述を、それを記述する私が俯瞰して行っています。現象学は私自身を語らず、物語の私を語ります。私を物語る限界は、私の限界とは異なるのではないでしょうか。私は、物語の私と同列にいないでしょう。
 もし仮に、私の記述が物語を超えて私を記述できるとしても、私の限界や思考などに関する記述は、私の記憶の内にあるそれらの記述にしかなりえないのではないでしょうか?

 

 物語の内、現実値であるものだけが私を語っているとすれば、私の非現実値である思考は、語り得る私の思考ではありません!
現象学という物語は物語の私を語らず、私自身を語る。」これは物語です。物語は物語を語ることができます。物語は私に認識されたものです。私に認識されたものが、また別の私に認識されたものを指すことができます。そのように認識することができます。私は、私に認識される記号に留まりません。私の認識は、非記号にまで及びます。
 物語の限界の外は示されるでしょう。そして物語の限界の外とは、シニフィアンが立ち入れず、シニフィエのみが立ち入れる領域なのではないでしょうか?
 私は、物語の私は私ではないと物語りました。すなわち、物語の私は私と異なると物語りました。一致/異なるという概念は物語全てに、論理全てに、そして思考全体に、認識全体に適用できているよう思えます。私の認識は、同一であるものを識別できていないと思うし、同一でないものは否が応でも識別していると思います(あるいはその順番は逆かもしれません!)。もっとも、この点に関する考察は不十分だと思います。

 

 私によって行われる物語の限界の規定は、あるいは思考可能か思考不可能かという分類は、時間のエポケーによって次々と(「次々と」という表現が時間を前提している点はご容赦願いたい)失われます。ですが、記憶でも記録でも、それを見た私が再び規定や分類を行うことができるはずです。もちろん、その内容が過去と現在で一致しているか否かは、時間のエポケーによって不明となります。

 

 成案に向けた覚書2!「思考可能」/「思考不可能と分かる」の2値による分類は、なんらかの助けとなるかもしれない。

なぜ超克されるのか―不知の自覚

 なぜ「思考哲学論草稿」は明確な超克の対象となったのでしょうか?例えば、次の記述を見てみます。
こう考えることになります。私は、過去を知覚しているのではない。現在持っている記憶を知覚しているのである。時間の変遷から解き放たれた、現に在る状態を考えることになります!(思考哲学論草稿「記憶喪失」第5段落)
「私は、過去を知覚しているのではない。」という記述は客観の描画を含んでいます。過去と見なしているものを見なしているものであると再認識するのですが、その過程で過去を描画しています。加えて、他の複数箇所についても「成案のエッセンス」で述べた緒論を用いた反駁が可能であると気付いたことで、「思考哲学論草稿」は超克の対象となりました。

 

 私の視界に一枚の板があります。この奥に何があるか、それは分かりません。さもこの奥に何かがあるように語っていますが、この奥には、あるいはこの奥なんてないのかもしれません。この板の奥については臆見です。では、板の奥について知らないと思うこと、これはどうでしょうか?やはり、板の奥について思っています。板の奥について知らないという思いも臆見です。
 私は思索の過程で、「Xについて何かを思わねば、Xについて知らないと思うことはできないのではないか?」と考えました。例えば、「ある箱を見るまでは、私はこの箱の内側を知らないと思うことはできないのではないか?」ということです。それとも想起説のように、最初からその箱のことを知っていたのかもしれません。
 認識し得ないことについて、認識し得ないと認識することができます。「認識し得るか否かというパラメータは、認識し得るか否か以外のパラメータについて語るのではないか?」と考えましが、しかしそれはつまり、認識し得るか否かというパラメータを通して、認識し得るか否か以外のパラメータを認識していることに他ならないのではないでしょうか。
 しかし恐らく私は、「記述できない」という記述を見たとき、記述できないとはどのようなことかを認識していると思います。恐らく同様に、「認識できない」という記述を見たとき、認識できないとはどのようなことかを認識しているはずです。主観の内側から、主観を超えようとする記述の言わんとするところを理解できるのではないでしょうか?記号でも論理的でもないなんらかを私は理解しうるのではないでしょうか。記述不可能な非記号思考(それは一般的に直感と呼ばれるものかもしれない)が可能なのではないかとも思います。
 意味は、シニフィアンと対応せずとも、私に理解されうるでしょう。シニフィエは示されるのだと思います。
 私はここでなんらかの結論を出そうとは思っていません。今後の私の思索に期待しています。

哲学の方法についての論考ファースト(ひよったので、ファースト)

この論考(って呼んでもいいですか?!?!?!💢💢💢)は、思考原理とかあのあれあれです一般的?っていうんですか?あ!一般的な論理学を!前提としています!でも!それについての気持ちも書!(←ここで小ジャンプ)かせていただいております! 

 

アンクラーーーーーーーージュ!!!!!

了解!!!!!

・「AはXである」≠「AのみXである」

・「Aという思い」「Aという気持ち」「Aと考える」などは、「A」と主張しているわけではなく、例えば「Aという思い」自体を主張しています!!!!!心のバージョン10ってな~んだ?こころてん(夏祭り)(「分からない」「自信」などの語を含め、主観にとって自由なものを指しています...!(この補足ってここに書くの間違ってる気がします!元気元気!))

 

他にも適宜しています、投錨を(取り出せるシニフィエをアンクラージュで単一にすること、できたらうれしいかもです...!)

 

想い

論考書きたいッス...発破かける気持ちも込めた論考書くぞ~!11/24←いい節の日ですし🌸🌹ポカ🌻(いい←これなんなのですか!助けて!)(11/24に合わせようと思い立ち、あまり確認作業をできていません___(←未来の自分に向けた言い訳を書かせていただきました...))

個人ブログがすきなのですが、論考って個人ブログっぽくてすきだ...(ウィトゲンシュタインも現状すきと思われていただいております 粛々と 嘘!(嘘つき!!!!!)踊りながらすきですヨーーーーー!!!!!(なお、論理哲学論考を読み切る前に書いております。哲学探究も...すみません...(すごい書きたかったから!!!←書いた理由))(これかっこの数あってますか?フォントサイズ変えて確認しようかな いいですか?(だめ(メモ:ここだけフォントサイズ大きくする(嘘追伸:できませんでした)))(よく考えたらこれ個人ブログじゃん!論考で、よろしいです、か?)

 

目的(もくてき と読みます)

善に至りたいです...善ってなんなんだ...善の定義を決めあぐねています(ウィトゲンシュタイン様に呆れられるかもしれないですね...) 善に至りたいです!!!!!善に至りたいです!!!!!!!

 

方法論

方法論を書きます!大きく分類するなら、現象学, 論理学, 記号論, 行動規範 の4つとしています!!!(こういう分け方って!思いついたの書いてく感じになっていやだ~~~~~!です!!!!!!(いやなため(網羅できてなさそうだから)))

gaiyou

現象学 :主観-客観図式を除いた考えを得るため

論理学 :世界(物質世界に限らないかもしれないです!)に適用される理を得るため(論理学は形而上学の系譜と認識しております!)

記号論 :思考やその記述に記号を用いるため

行動規範:そもそも善に至ろうとする行動がどういう規範に依っているか、この論考を書くのはなぜか、とか!を認識するため(行動規範を決定するための行動規範、さらにそれを決定するための...(以下略)は、わかっていないので書けず___)

end of gaiyou

 

現象学と論理学の合流

主観と論理の双方から出発し、後に合流するぞ!

主観-客観図式を前提とした展開(矛盾律の使用など)を行ったとして、主観から開始した場合の整合性もとれるかもしれない、もしそうなら、主観から取り出した論理を使えるかもですよね?!(論理の正しさ(正しさという言葉も、論理によって構成されている気がします)も、今のところ経験則でしか説明ができないため...)という態度です!←これはぼく(主観が存在する、というのが最も確かなことだと(現状2)思っているため)

 

記号論

ウワーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

行動規範

ぼくは善に至りたいのですが、そのための方法を知りません!善がなにかも知りません!(←勢いがすごくて確認作業のときびっくりしたことを、教えさせていただきます!びっくりマークが1個だけだからかも?!)ですが、その状態でも行動していますよね___ つまり、善に至りたいという思考の通りに行動しているわけです!このような自然主義的反射(←これはぼくの造語です(なんかそういうのがあったほうがそれっぽいかも🤩という気持ちです😤)フヒヒ🧜‍♀️(うーんむ))のみを行動規範としています!(善について考えるなら、必ず自然主義に立ち返らねばならない という名言っぽい文章を思いつきました!ぼくはこれについては現状不明という立場です(←注釈)(誤謬とされるもの(この場合、自然主義的誤謬)を自身で判断しなおす気持ちによる造語かも!!!)

キラキラ行動規範

・善に至ろうとがんばること(善に至ろうとしないことが善に至る唯一の方法なら、どうしましょう...)

なんか!今now付随してる特筆します行動規範(why♪)

・善を知らないかも(なぜ "かも" なのかというと、例えば性善説を考慮してのことです)しれないということを自覚するー~~~ーヨ~~~~~!こと

・悪を知らないかも(以下略りゃーく!)

・論理を知らないかも(以下略りゃーく!リターンズ)

・善悪が存在するかを知らないかも(以下略(←OK!))

 

自己検閲の主な方法(私的典型ですWAAAAW👑)

自己検閲←自分の理論が誤っていないかを確認し、選別すること として当たり前のように使ってたけど造語だったのを思い出しました(かっちょいい言葉ですぜぃ😎と思って当てはめたのですが、ちょっとかっこつけすぎですかも🤩)

・裏, 逆, 対偶 に気を付ける

・自己言及的な論理については、注意しながら考える(論理自体について考えるときは、特に危なそう!)

・単調性がない場合(例:善に至るには、善について考え続けてはいけない)を考慮する 貪欲法と動的計画法の関係つーことですか?!(なんかそうかもしれないです!)

・消極的事実に気を付ける

・自分固有の概念をなるべく作らない

 - 現象学的な定義を優先する(現象学的な定義じゃない例:イデア論イデア論が誤りであるという主張ではありません(正しいという主張でもありません))

 - Aについてのパラメータを列挙するとき、パラメータを得るための方法として、a∈A, b∈A, c∈A... と取り出していくよりも、まず A_1⊂A となる A_1 と A_2 = A - A_1 を取り出し、A_11⊂A_1 となる A_11 と A_12 = A_1 - A_11、及び A_21⊂A_2 となる A_21 と A_22 = A_2 - A_21を取り出し...という方法を優先する(これに反している例!!!→→→善に至るための方法として、現象学, 論理学, 記号論, 行動規範 の4つを列挙する(ウヮアァアァ""""""""""""'"!!!!!)(善に至る方法の全体をご存じないかもです...ぼく...)とか、パラメータを列挙する方法の例としてこの項のように書く(ガ...(特に気を付けようと思った次第です😤😤😤)とか...です...)(合成したときAとトートロジーになりやすいと思うから(もし不可逆ならトートロジーにならない______))

・(一部あるいはすべての)論理が適用不可能な何かを、認識不可能だとしても存在しないとはしない(自己言及的...!)

・善悪を前提にした判断はしない(善悪が何か分かっている気がしないため!!!分かったらするぞ~~~!!!)

・n値論理(今は3値ですか?!)の場合、すべてのn通り考えられる部分にn通りの状態を適用し、命題全体の値が何になるか確認する(全探索する、ということですネ___(枝刈りなどの高速化は、します!)) 他の方法もこれに一般化できる気がします!でも、時間と空間のトレードオフっちゅーわけですよね...(すみません、すみません)

自己言及的な論理の実例として!消極的事実への反駁方法

・「ない」への反駁は、「ある」を一つ以上提示すればバッチリです

注意:ある事象が消極的事実であるということは、その事象が偽であるという決定ではなく、その事象の真偽を判断することが困難と思われるということ(例:A≠Aを満たすAはない←もしかしたらそのAを認識できないだけかもしれない(そうなら、この注意事項もやばし!))

↑こういうのが、自己言及的な論理の実例でうす㋐(なんで別の節にしたんでしたっけ...)

 

方法論じゃない(それはこれまでのほとんどが、そうだろ)

主観の定義、ちょっとわかりません...存在することの証明とか、存在するとは何かとかも、ちょっとわかりません2…ぼく視点で存在するとしか...help…

客観:主観でないもの

/*

ここに主観から出発した客観の素晴らしい証明がありましたが、けっけしました。!🍕

*/

ウヮアァアァアァアァアァアァ!!! ほんとなの?!網羅できてる?!ウーム...(これが不安すぎたというのが一つの理由です)

 

~~~報告のTIME~~~

「例えば、『思考は現存在であり、かつ現存在でない状態でのみ可能である』」と記号として思考したとする。しかし、矛盾律によってこれは間違いとなる。思考可能な主観の状態が論理的に真だと仮定しても、思考のシニフィエが偽でない保証にはならない。思考が物質的な脳によってのみ生まれると仮定し、矛盾なシニフィエを持つ思考をした状態をすべて調べたとして、物質的に誤りのない状態とわかるだけなのでは?」みたいなぼんやりした気持ちがあります(なんの報告?)(矛盾してないと考えられないこと、考えてみたいナ~~~~~!)

~~~終・報TIME~~~

待って!!!もしかして、真でない思考が可能じゃないとたどり着けない理論があるかもですね...?ないかもですね...?すみません...

ところで善という記号、どうやって生まれたんだ(うまれたんだ) うまれたんだ~~~~~!という気持ちです!(メーーーーッモッモ モー(うし))

 

対人論証は誤りである、というのは誤りかも!!!

→論理を規定可能な人物はいないという消極的事実に依っているからです(ほかにも反例はあるかもですが、この一つで反例が「ある」状態になった!!!)

 →ぼくが論理を規定可能な人物がいると言っているわけではないですが、それを根拠にこの反駁を無効とするのは、やはり対人論証かも...!そして、それが真となるには、対人論証が誤りでない必要がある...?!(これは早まった一般化かも...?!)(ウワアアアアア!!!!!)(ここからは記号論も必要になる...?!)(...?!祭りだ ウワアアアアア!(無限に続く(無限に続きそう、と、そう思わせていただきました。)論理を認識できる自信、ほぼなし___なため、叫ばせていただきました🦢))

 

ワ!!!!!!

善である状態がぼくにとって幸福という状態なら...

  1. 善の状態なら幸福である
  2. 1の対偶として、幸福でないなら善ではない

ということですね...?!善が無理なら幸福を求めさせていただきたいと思っております、私(わたくし)と申します。自己紹介です。(自然主義的反射についてはがんばって考え~~~~~~ る!!!!!させていただきます!!!!!

 

ところでスワンプマンのあれを書いていいですか?だめだったらごめんなさい!!!!! 雷に打たれる前の人と打たれた後の人を分けて思考可能なので、トートロジーでない です よろしくお願いします...(高次の視点から別の記号を割り当てることが可能!!!!!)

 

論考と書いておきながら散文失礼しました しました(タグ、哲学であってますか???どうなんですか?どうなんでしょう...いいの?!こっそりかえる、か(なんか、おそろしいから))